ヤード×ミスミ



からん、からんと高い金属音が晴れ渡る青空に鳴り響く。
生徒達は今日の授業の終わりを告げる鐘と、ヤードの
「では、今日の授業はここまでにしましょう」
の言葉を聞くや否や、一斉に立ち上がり元気な挨拶を残して走っていった。
あの様子では家に帰らず、そのまま遊びに行くのだろう。
こうなる事を予測し授業が終わる前に予め課しておいた宿題を忘れてはいないだろうかと苦笑しながらも、ヤードは己が幼少の頃には叶わなかった光景を眩しそうに見送った。
その日に使われた筆記具と教材を片付け、泉の前に設けられた学舎――いや、舎とは言えないだろう、なにしろその教室には屋根はおろか机すら無いのだから。
ともあれ、島の住民が“学校”と呼ぶその場所を後にする。

学校の授業は終わった。だがヤードにはこれからもう一つ、授業をしなければならない人物がいるのだ。
その人はヤードの授業を事のほか気に入ったらしく、彼が御殿へと向かうといつも門前まで来て出迎え、そして同様に帰る時も御殿が見えなくなるまで門の前に立っている。
こっそりと御殿で働く侍女に聞いたところ、いくら侍女達が姫様自ら然様な事をと言ってもそれだけは頑として譲らないのだという。
自分のような者には勿体無い扱いだと恐縮しつつ、他方では何とも礼に篤い彼女らしいと思い御殿への道すがら彼は一人忍び笑いを漏らした。


やがて景色に、藁を葺いた屋根がちらほらと見えるようになってきた。
風雷の郷に暮らす者達の家だ。
家の周りの水を張った耕地には作物が青々と育ち、この郷の名前に恥じぬ、そして郷長の加護を象徴するかの様な優しい風にその頭を揺らしている。
水田の向こうから作業の手を休めヤードに挨拶をしてくる郷人に手を振りながら、ヤードは草の海の間に通された細い道を歩く。

田を抜けると、左手に大きな森とその入り口になる石段、そして朱塗りの柱で組まれた扉の無い門が現れた。
この鎮守の社を通り過ぎれば、目指す鬼の御殿はもう目と鼻の先である。
鎮守の社にある建物の意を教えられて以来、ヤードはこの個人授業に来る度に社を参拝していく事を日課としていた。
今日とてその日課を変える理由は無く、ヤードの足は左へと曲がり鳥居を抜けて石段を上る。


石段を上りきると、そこには林に囲まれ、静々と佇む宮があった。
前に立ち、柏手を打つ。打った手をそのまま胸の前へと持っていき、黙して畏む。
シルターンの者が見ればリィンバウムの人間によくぞここまでと驚くだろう、実に洗練された所作だった。
ヤードとしては、召喚術を行使する時のような静まった心持で教えられた通りの動作を行っているだけなのだが。
恐らくは彼の本質に龍道や鬼道に通じるものがあったのだろう。
社に瞑目して礼するヤードの姿は、動は無くもグウジやミコの神楽舞を彷彿とさせ、その場にそうして在る事が自然であるかのように周囲へと溶け込んでいった。

しかし、がさりという茂みを分かつ音がヤードの意識を己へと戻した。
音のした方へと首を向ける。
「ミスミ様…………?」
そこにはヤードがこれから向かう筈であった鬼の御殿の主人、風雷の郷長でもある白南風の鬼姫その人が立っていた。



「やはり此処におったのじゃな。待つのに草臥れ、こうして出向いてきてしもうたわ」
嫣然と微笑みヤードへと歩を進めるミスミ。
「よくお分かりになりましたね」
「この郷は妾の郷じゃ、分からぬ事など何一つないわ。このような所で道草を食ってからに。妾がどれほど首を長くして其方を待った事か」
さも意外だったと言わんばかりのヤードに、ミスミが憮然として答えた。
「それはすみませんでした。存外長い事此処で時間を取ってしまったようですね」
「酷い男じゃ。この郷で妾を待たせて気にも留めぬ者など其方しかおらぬぞ?」
一転し、楽しそうに袖で口元を隠し笑う。


そのまま、空いた手でミスミはヤードの腕を自分の胸へと抱いた。
「そして、それが許されるのも其方しかおらぬというに、其方はちいとも分かってはくれぬ……」
まるで壊れ物を扱うかの様に、愛しそうに腕をさする。ヤードを見つめる瞳には、何かを堪える様な光があった。
ミスミの行動に、ヤードは驚きの声を上げる。
「み、ミスミ様!? 突然何を……」
「突然ではない。先ほど言うたではないか。待ち草臥れた、とな」
ヤードの言葉を最後まで聞かず、ミスミはその口を自分の唇で塞ぐ。ヤードの足が後ろに下がり、社の壁に背中が当たった。
構う事無くミスミは自分の身体をヤードへと摺り寄せ、彼へと己の匂いを染み付けるようにしなだれていく。
「毎日毎日いつ気付いてくれるのかと、ほんに待ち続けたのだぞ……だがもう我慢出来ず、斯様な場所で今、其方を押し倒してしまっておる……」
自らの行いが信じられないといった風に、恥ずかし気に俯き顔を隠すミスミ。だがヤードに寄り添う体勢は変えず、寧ろより彼へと身体を預けるように全身の力を抜いた。

ヤードの足は二人分の体重を支えきれず、背中を社の壁に押し付けたままずりずりと下ろしていく。
地面へと腰を下ろしたヤードは、ミスミの肩に手を掛け彼女を引き離そうとした。
「ミスミ様、お戯れも程々にして下さい」
「戯れなどではない! 其方は妾の気持ちをはっきり言葉にしろと、そう申すのか?」
制止を振り払うようにミスミは叫んだ。
彼女の目にはヤードしか映っていない。
ここが神聖な杜である事も、誰かに見られるかもしれぬという危惧もこの瞬間には思いつかなかった。

目の前の彼を自分のものにしたい。
ただそれだけがミスミを支配していた。
「よかろう、其方が求むのならば何度でも言うぞ。妾は……其方を愛しておる。他の誰よりもな。其方が手に入るのならば他の何を引き換えにしても良い、そう思える程に」
再びヤードの手を押し退け、ミスミがヤードへと抱きついた。
今度は離されないようにと、しっかり彼の背中と壁の間へ手を差し入れ、この胸は自分のものだとでもいう様に強く抱き締める。

「ミスミ様」
「…………妾では、駄目なのかえ?」
上背のあるヤードの胸へと顔を埋めたまま、ミスミが呟く。
表情を見せようとしない彼女の肩は、細かく震えていた。
「ミスミ様には、スバル君がいるではありませんか」
「言うな。妾は今、あれよりも其方が欲しいと、そう申しておるのじゃ。どうあっても妾の気持ちには、応えてくれぬのか」
「…………」

沈黙が降りる。
不意に起きた風が、ヤードの髪を揺らした。
「……風が……?」
「今この瞬間だけでもいい。其方を妾のものに、そして妾を其方のものに……」
巻いた風がヤードの手足へと絡み付いていく。
風はそれと同時にミスミの上着をはだけ、彼女の細く美しい肩を露にしていた。
人に非ざる妖の瞳がヤードを捉える。薄く微笑む笑みに見えるものは己の欲望を満たす暗い悦び。
ゆっくりとミスミの繊手がヤードの頬へと伸ばされ――――

手品のようにミスミの手に現れた一本の苦無がヤードの首筋へと振り下ろされた。


続く

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