風呂上りの刹那に



「つい、長居してしまいましたね」
 見事な造りの湯呑みを畳の上に置き、レックスは呟いた。
 時刻は既に夜。風にざわめく木々の陰からは虫の鳴き声が聴こえてくる。
 程よく冷えた空気が心地良い。見上げれば、空には満月が煌めいていた。
 藍色に染まった暗がりを照らし、立ち並ぶ庵の影を浮かび上がらせる。緩やかに、映し出す。
 風雷の郷──その静かな、それでいて雄々しい姿を。
「すまぬな……スバルが駄々をこねねば、陽が落ちる前には戻れたであろうに」
 申し訳なさそうに顔を伏せ、ミスミはすぐ隣に横たわる我が子の寝顔を見やる。
 先程まで賑やかにはしゃいでいた少年も、今や庭石より大人しい。
 規則正しい呼吸を繰り返すスバルの髪を撫で、ミスミは暖かな微笑を浮かべた。
「朝から先生が遊びに来ることを楽しみにしておってな?
 約束の時間の半刻前には猫が足音一つ立てる度に玄関まで飛んでいく有様じゃった」
 想像して、レックスもまた笑みを浮かべる。
「あはは……嬉しいですね。そんなに懐いてもらえるなんて」
 レックスは、ここ『鬼の御殿』に到着した途端に飛び付いてきたスバルの笑顔を思い出す。
 子供とはいえ鬼人族の持つ強靭な力で引き摺られ、その様子を目撃したキュウマの失笑を買ったことも。
「わらわとて心中は同じであったぞ? 年甲斐もなく胸が躍ってな、ご老体から少しは落ち着けと叱られた」
 くすり、と悪戯を考え付いた子供のような表情で、艶然と、それでいて無邪気にミスミは笑った。
 その振る舞いは少女のようで、レックスは自分の頬が熱くなるのを自覚する。
「ミスミ様はまだお若いじゃないですか……それに、俺がここに来るのもそう珍しいことなんかじゃないし。
 むしろ度々お邪魔させてもらって心苦しいくらいです」
 コホン、と咳払いを一つ。レックスはまだ少し残っているお茶を飲んで落ち着こうとした。
 柔らかく鼻孔をくすぐる茶葉の香りが心にしみる。そうして幾分か動悸が静まりつつあったその瞬間。
「どうせなら毎日会いたいと思うのが、年若い女の性であろ?」
 見事にその平常心は粉砕された。
「か、からかわないでくださいよ。全く……ミスミ様は冗談がお好きなんですね」
「さあ、それはどうであろうな?」
 気恥ずかしさで一杯になり、レックスは自分の敗北を悟った。今はまともにミスミの顔を見れそうにない。
(まるで子供扱いだな……俺)
 そんなことを考えて、心の中で盛大に溜息をつく。しかし、ふと外の暗さが深みを増していることに気が付いた。
 レックスは、慌てて腰を上げる。
「あ、それじゃあ俺はそろそろ戻ります。今日はお招きいただいてどうもありがとうございました」
 周囲を見回して、自分の荷物を探す。それを見つけた頃に、ミスミから声が掛かった。
「まあ、そう急くでない」
「え? でも……」
 一応ヤードに今日の用事は伝えてあるが、これ以上遅くなると心配をかけてしまうだろう。
 ソノラあたりは既に探しに出ようとしているかもしれなかった。
「湯の用意ができておる。どうせなら今日の疲れを落としてゆくとよい」

「ふう……」
 檜造りの湯船につかりながら、思わず気の抜けた声が漏れる。
 熱い湯とほのかに香る木材の効果で、日頃から疲れが溜まっていたレックスの体は嬉しい悲鳴を上げていた。
 普段から柔和な表情が、今はさらにだらしないほど緩みきっている。
「ミスミ様に感謝しなきゃな……あ〜、極楽」
 そのまましばらく体を投げ出すようにし、束の間の幸せを甘受した。
 のぼせたり、あるいは湯冷めしないように頃合を見計らって、レックスは湯船から上がる。
 体を洗うために垢すりを手に取る。ソープはないのかと探してはみたものの、それらしいものは置いてなかった。
 文化の違いというものを噛み締めつつ、腕や脚を洗う。その時、突然に戸が開け放たれた。
 一瞬何が起こったかわからず、レックスは素っ頓狂な声を上げた。
「え……ミ、ミスミ様!?」
 いつものような着物ではなく、一枚の白い布を申し訳程度に巻きつけたミスミがそこにいた。
 艶やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと近付いてくる。
「なに、そなたはシルターン式の風呂には慣れておらぬだろうと思ってな。背中を流しに来た」
 うなじにかかる長い黒髪を掻き上げ、白く細い首筋が晒される。
「結構です! 結構ですから! どうぞお構いなく!」
 レックスは混乱し、情けない声を上げることしかできない。浴室は広かったが、逃げ回ることができるほどの広さではない。
「客をもてなすのが家主として当然の責務であろう? よいではないかよいではないか、ほれ観念せい」
「お戯れを! お、およしになって!? あ〜れ〜」
 ──何故だかレックスは、そう答えるのが礼儀であるような気がした。

 背中を丹念に洗い流されている間、レックスは硬直して全く身動きが取れずにいた。
 彼とて健全な男だ。このような状況下で、思い余って過ちを犯してしまわない保障などどこにもない。
 言葉の一つも発せず、胸の中でしきりに暴れる劣情を制御することのみに意識の全てを奪われる。
「のう、先生……」
 背後から投げ掛けられるミスミの言葉にも、返事を返すだけの余裕などあるはずもなかった。
 不意に、背中に柔らかな弾力を感じる。豊かな乳房を押し付けられているのだと理解し、反射的に背筋を伸ばしてしまう。
 肩になにかが乗せられる。耳元を自分のものではない髪がくすぐり、それがミスミの顎だとわかる。
 ミスミの体温と、品の良い香りを感じ、レックスの鼓動は一際激しく跳ね上がった。
「スバルの、ことなんじゃがな……」
 その言葉は、レックスに僅かばかりの理性を取り戻させた。
 身動きが取れないのは相変わらずだが、ミスミの体の感触も、今ならそれほど気にならない。
「あの子は恐らく、先生に父親を重ねておる。ろくに顔も知らぬ父、リクトをな」
 しばらくの沈黙が過ぎる。目の前に、天井から滴り落ちた雫が飛沫を上げた。
「だから……時にはそのように振舞ってほしいのじゃ。教師としてだけではなく、真正面から厳しくな」
 寂しげな声。微かに震えた声。けれど、確かな強さを含んだ声。
「姫としてではなく……母としてのたっての願いじゃ。……頼まれてはくれぬか」
「……わかりました。俺なんかでよければ」
 レックスは、こんなことしか言えない自分がひどく情けなく思えた。
 もう少し、気の利いたことを言えればいいのに、と。
 
 だが──

「ふ、ふふふふっ♪ そうか、そうか! 礼を言うぞ先生!」
「う、うわっ!? 離れてくださいよ!」
「ええい、じたばたするでない。減るもんじゃなし」
 途端に子供のように無邪気な様子で抱き付いてきたミスミの姿を見て、レックスは自分の行動が間違ってはいないのだと感じた。

 結局、その後すぐにミスミは浴室から出て行った。軽やかな足取りで鼻歌混じりに歩いていく姿を見送り、レックスは苦笑する。
「やれやれ……」
 呟きながら衣服をまとう。湯で温まった体には少し厚着が過ぎたが、夜風に当たれば丁度良くなるだろう。
「恋人もいないのに、父親役とはね……俺もしかして、保父さんとかでもやっていけるのかもしれないなあ」
 そばに誰かがいればすごい勢いで頷いたであろう台詞を一人ごちて、レックスは廊下に出る戸に手をかけた。
 ──その時、レックスは何者かの気配を感じた。

……ニンニン……

 ──背後の浴室、その天井裏の辺りから聞こえてきたそれは果たして何だったのであろうか。
 瞬間的に背筋が凍る。神経、細胞の一つ一つが氷に変じたような感覚。
 冷汗が全身から吹き出る。体中に粟が立つのがわかる。
 それは恐怖。それは戦慄。それは焦燥。
 怯えた小動物のように全身を緊張させ、レックスは物音一つすら聞き逃すまいとした。
 だが、何かが動く気配も、空気が揺らぐような感触も、それ以降は決して捉えられなかった。
 ──気が付けば、抜剣していた。

 屋敷の外では、虫の鳴き声が未だに続いていた──


おわり

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