僕の名を呼ぶ君の声



 空高く、照りつける日も届かない、闇の底。
 どこか湿った風が、肌を撫でる。潮の香混じりの湿り気ではない。
 黴の匂い。長年の間に僅かづつ降り積もった埃の匂い。
 ―――地の、底へと。誘う死の匂い。
「……く……ふっ……ぅあ……」
 埃と黴と死の香る、昼なお暗い其処。
 生ぬるく立ち込める風に混じって、細い声が途切れる事無く続いていた。
「ぁ……あ、やだ……っ」
 涙に濡れた声音が、拒絶の言葉を紡ぐ。
 それは確かに拒絶を意味する内容で、
 それを縁取るのも確かに涙ではあるのだが。
「っひぅ……」
 そこに含まれた、ごく僅かな艶。
 それは、とうの昔に廃棄され封じられた遺跡にはいかにも不釣合いな、世間一般的に『嬌声』と形容されるものに良く似ていた。
 崩れかけた天井の一部から、ほんの僅かに光が差し込んでくる。舞い散る埃の幕の向こうに、ぼんやりと浮かび上がる影。
 一見奇怪なオブジェのようにも見える。
「……ぁ……はぁっ……も……、や、やめ……て……」
 哀願は、そのオブジェの中ほどから聞こえてきた。

 下から突き上げる律動に揺さぶられるまま、腰まである長い髪を振り乱す女性。
 奇怪な影を生み出していたのは、両手を束ねられて宙吊りにされた彼女自身の体であり、腕であり、その白い肌が羞恥の為に真っ赤に染まるまでに大きく左右に割り広げられた両の足、だったのだ。
 もっとも、それはあくまで影の一部に過ぎないのだが。
 大部分は彼女の体とは別の方向へと、それぞれ意思を持つかのように蠢いている。
 細い手首を縛り上げて天井に繋がっているものは、それとはまた別の手を、剥き出しにされている柔らかな乳房に這わせている。
 無意識に足を閉じようとする彼女の力に逆らっているのは、床を突き破って生えている方。
 幾重にも太股に巻きつき、火照った真白い肌にそれよりも赤い痣を残して食い込む様は見ていて痛々しいほどだ。
 けれど、それにも増して悲惨なのは、割り広げられた足の、その中央。
 黒々と濡れ光る太い枝の一本が、鮮やかに充血した花弁を歪ませて、内側へもぐりこんでいた。
「あ……ぅああ……」
 ぐねりと蠢いたそれが更に奥深くへと突き刺さる感触に、彼女の背が反り返って震える。
 自由にならない足の爪先がぴんと伸び、そのままの形でふるふると揺れた。
 がくりと首を項垂れ、焦点の定まらない目が自らの秘部を見下ろす。
 ぐちゅぐちゅといやらしい音を立ててひくついている花弁も、弄って欲しいと言わんばかりに震えている花芯も、視界に入ることは入る。自分の喘ぎも、忌まわしいものを受け入れている其処が立てる卑猥な音も、聞こえることは聞こえる。
 けれどそれももう、厚布でも隔てたような曖昧さでしかない。
 そうして感覚を遠ざける事で、彼女は終わりのない快楽の苦痛で自身の精神が崩壊するのを防いでいた。
 ―――そんなもの、とっくの昔に砕け散っているのかも知れないが。

「う……んぁ、はぁ……」
 切なく吐息をもらして、細い腰を揺らめかせる。
 両手足を拘束されて吊られた体は思うようには動かないし、そうして彼女が動けば動いただけ、彼女を苛む枝はまるで逃げるように引いていく。
 強い刺激を欲して喘いでも、それを理解し認識する精神が存在していないから、煽られることも彼女に没入することもない。
 ただ機械的に、責め苦と名を変えた愉悦を彼女の体に、心に刻み付けるだけだ。
 幾度となく。果てる事さえなく。
「随分とお楽しみのようだね?」
 差し込む日の光に透けて、舞い散る埃がきらきらと輝いている床の上に、彼女以外の者の影が長く伸びる。
 体に蔦を絡ませ、それによって体内を抉り上げられている彼女ほどではないにせよ、異形を感じさせる輪郭を持ったその影。
 しかし、一瞬の光芒に包まれ、光が消え去った時には、片手になにかを携えた青年へと姿を変じていた。
「気分はどうだい? 悪くない?」
 携えてきたモノを無造作に脇へ放り投げながら、吊られた彼女に歩み寄ってきた青年は、目の前で長く揺れる赤毛を掬い取って指先に絡めた。
 うっすらと目を細めてそこへ口付け、戯れとも思える問いかけを口にしてから、未だ蠢きながら彼女を貫いているままの枝―――とは言っても、表面は金属の光沢を持っている―――と、それを受け入れている彼女自身の秘部をさらりと視線だけで撫でる。
「悪くはなさそうだね」
 もっとも、悦いって訳でもなさそうだけど。そう呟いて、彼女自身の髪を巻いたままの指で、赤くしこった花芯を擦る。
「ふぁ……あっ」
 指先の感触とは異なるざらりとしたものに撫で上げられて、彼女の背がぴんと伸びる。待ちわびていた刺激を漸く与えられた体は更に潤ったようで、溢れ出してきた蜜が枝を伝い、床に溜まっていた水溜り―――蜜溜りとでも形容したほうが良いだろうか?―――に新たな水位を注ぎ込む。
「反応が薄いね……疲れちゃったかい? もうちょっと声が出てくれないとつまらないよ……」
 くすくすと笑いながら、青年は花芯を弄る指先に力を込める。
 摘み上げて捻じるように指を動かし、絡めた髪を擦りつけた。
「ひ……ぅああっ……!!」
 掠れた悲鳴を上げて仰け反った肢体が激しく震えた。
 浮かんだ汗が散り、水音を奏でていたそこが、ぎゅぅっと激しく収縮する。
 絞り上げるような内側の動きに吃驚した枝が自身を引き抜こうと蠢くが、それさえも許すまいと食い締めて。
「っふ……ああ……」
 力の抜けた様子でぐったりと吐息を漏らした彼女の唇を、青年は僅かに濡れた指先でなぞる。
「触れられただけで達しちゃうなんて……。よっぽど焦らされてたみたいだね?」
「ぁ……んぅ」
 弾む呼吸を吐き出している柔らかな唇を割って、指を滑り込ませる。
 一瞬、戸惑ったように目を見開いた彼女だったが、やがておずおずと舌を伸ばして青年の指を―――そこに纏わった、自分の蜜を舐め始めた。
 ちゅぷ……くちゅ
 指と、それよりも柔らかい粘膜とが触れ合う度に、唾液が卑猥に音を響かせる。
「今日は随分と積極的なんだね、アティ? 奴を片付けるのに思いのほか時間がかかっちゃったから、その間焦らされて大変だったのかな」
 羞恥に頬を赤く染めながらも懸命に舌を動かす彼女の上あごを内側からくすぐり、ぴくんと跳ねた肌の上に褒美とばかりに口付けを落として、青年は矢張り、薄い笑みを浮かべたままでそう言った。
「それとも……、本気で僕が欲しかった、のかな?」
 戯れ混じりに問い掛けてみるも、帰ってくるのは熱に浮かされたような虚ろな瞳。
 それに僅かな空虚を感じた青年だったが、直ぐにそれを深い場所へ押し込めた。
 こんな形でなければ、駄目だったんだから仕方ないじゃないか。と、自身に言い聞かせるように呟いて。
 唾液の糸を引いて、抜き取った指を滑らかな乳房に這わせた。
 アティが、小さな喘ぎ声を零して身を捩る。
「イス……ラ……」
 掠れた声音が名を呼ばわる。その声も、彼女の瞳同様にどこか虚ろで、風が吹き抜けていくような感を抱かせるものだったが。
「なんだい、アティ?」
「おねが……もぅ、いかせ……て……」

 彼女の声が、名を呼ばわる。

「ついさっき達ったばかりじゃないか。忘れたわけじゃないだろう?」
「……ちが……」

 アティの声が、そう紡ぐ。自分に向けて、自分の名を。

「何が違うんだい? アティ」
「イスラ……を……いれて……っ」

 アティが呼ぶ。自分を、『イスラ』と。
 ただそれだけで、彼は満足だった。

 ぶちぶちと音を立てて、彼女の腕を戒めていた蔦を引き千切る。
 後ろへ倒れこみそうになったアティの手を取り、赤く痣の残った手首を舐めると、微かに鉄の味。
「つかまって」
 自らの首へと腕をまわさせて囁くと、自由になった上半身だけをすり寄せてしがみ付いてくる。
 肩に顔を埋めた彼女は、時折体を震わせて喘いでいた。
 その、原因。
「……退けよ」
 未だ彼女を貫いたままの枝を掴んで、イスラは言った。短い命令の口調で。
 手に触れる枝の感触は見てくれに反して滑らかで、柳のようなしなやかさを供えている。表面は黒々と光り、アティが流した蜜に濡れててらてらと隠微に輝いていた。
 ぬめって指を滑らせる枝は、彼がそう命じると、僅かに蠢いた。
 ずるりと音を立てて、一杯に広げられた彼女の秘部から姿を現す。けれど、半ばほどまで抜け、そして動きが止まった。
 名残惜しげに身を捩り、敏感な粘膜を擦り上げる。
「んあっ……!!」
 その感触に、青年の首に回した腕に力を込めて縋りついたアティが耐え切れずに声を上げる。
「ぁ……ごめ……なさ……っ」
「いいんだよ」
 泣き出しそうな表情で詫びる彼女に口付けて、青年は枝を握り締める指に更に力を込めた。めきりと嫌な音が響いて、鉄色の表面に指が食い込む。
「話がわからない奴だって事を忘れてた……」
 低い声音で呟く青年の背後に、紅くゆらめくオーラが重なる。
 ゆらゆらと揺れる黒髪が鈍い銀色に輝き、黒かった瞳が鮮やかな深紅へと変貌する。
「退け」
 三度は言わない、と言外に含ませた命令。その言葉にというよりは青年の纏う力に気圧されたように、ずるずると枝が退いていく。
 圧倒的な力の前に未練さえも消し飛んだ様子で。
「……どうやら君の中はまともな観念さえ消えうせている連中でも夢中になるほど悦いみたいだね」
 長時間太いものをくわえこまされていた秘裂は、青年の指が触れると怯えるように花弁を震わせた。その奥からはとろとろと際限なく蜜が溢れ出し、彼女を支えている枝を濡らしながら滴り落ちた。
「その気持ちはわからなくもないけどね……」
 呟いて、抱き寄せたアティの耳朶を軽く噛む。ぴくんと華奢な体が跳ねて、すがり付いてくる手に力が篭った。
「イス、ラ……?」
 虚ろな瞳が、青年を見上げる。赤子が覚えたての言葉を使うのと同じ調子で、彼の名を呼ぶ彼女の声音。
 ―――そう、赤子だ。
 かつて在った彼女の心は何処にもない。砕けてしまった。―――否、砕いたのだ。自分が。
「……だって仕方ないじゃないか」
「? イス……ん、んああッ……!?」
 名を呼ばわろうとしたアティの声が、途中で悲鳴に取って代わる。
 不意に過った苦いものを振り払うように、青年は、彼女の中に深く自身を沈めこんだ。
 枝に嬲られ続けていた彼女の中は既に蕩けだしそうに潤っていて、少し動かすだけでぐちゅりと卑猥に鳴いた。 包み込む粘膜が誘うままに奥へ奥へと埋めこむと、内側を満たしてなお足りず、
足を伝って溢れかえっている蜜が押し出されて更に溢れ、床へと滴り落ちる。
「は……んぅ、あぁっ……」
 枝とはまったく違う強さで突き上げられ、揺さぶられる動きにあわせて、喘ぐアティの内側も、きつく、緩く収縮を繰り返しながら青年のものを啜り上げる。
 もっと奥へ。もっと、もっと。そう言わんばかりに、濡れそぼった粘膜が猛るイスラに絡みつく。その衝動のまま激しく腰を打ち付け、けれどお互いにその痛みを上回る愉悦に目がくらむ。
 それでもまだ足りない気がして、更に激しく打ち付ける。
「アティ……アティ、っ……呼んで御覧、ほら、もっと……!!」
 イスラは片手でアティの腰を引き寄せて腰を打ちつけ、そう囁きながら空いた指を彼女の秘裂へと伸ばす。繋がりあった部分を軽くなぞり、その上で固く立ち上がっているしこりをきつく摘み上げた。
「きゃうぅ……っ!!!」
 掠れた悲鳴。弓なりに仰け反ったアティの内側がきつく彼を締め上げる。せりあがってきた解放への欲求を眉をひそめる仕草で辛うじて堪え、更に腰を打ちつけていく。
 交わっているのでも、愛し合っているのでもない。ただ、貪りあっている。そう表現されるのが相応しいなと、頭の片隅で漏らした感想を握りつぶして。
「い、イスラ……っ……イスラっ……!!」
 喘ぎに混じって紡がれる、自分の名前。耳にするだけで、悪寒にも似た快感が背筋を駆け上る。
「いいよ、アティ……凄く、でもまだ足りない。もっと呼ぶんだ、もっと……!!」
「っあ、ああ……っい、イス……ああああぁああっ……!!」
 名を呼ばわる声が、一際大きく掠れて。アティの体が跳ねた。びくびくと震え、その動きに合わせて秘裂が歪む。
 きつく絞り上げられる感触に堪えきれず、イスラもまた、絶頂を迎えた彼女の中に欲望の全てを吐き出して果てた。



「……そうそう……忘れてた」
 互いの弾む息が漸く収まってきた頃に、思い出したかのように青年が呟く。
「アティ、君にね……お土産があるんだ」
「……………?」
 枝を払われて床に横たわっていたアティはその言葉に体を起こし、ぼんやりとした表情のまま視線を向ける。
 ゆっくりとした仕草で小首を傾げると、床に広がった赤毛がさらさらと音を立てて流れた。
「碧の賢帝が砕けて君を此処に連れてきてから、僕がいない間君はずっと一人だろう? 本当なら僕が一緒にいてあげればいいんだけど、目障りな連中がまだ多少残っていてね、暫くは無理そうなんだ」
 彼女の頬に触れながら、青年がそう言葉を紡いでも、虚ろな彼女の目にはなんの感情も浮かばない。
 ―――浮かぶ筈がないのだ。碧の賢帝……かつて彼女が振るった魔剣。
 扱うものの精神を具現するという、その剣。それが砕けるという事は扱い手の心が砕けるに等しいという。
「それに、僕にもやることが少しだけ残ってるからね……、それが済んだら、ずっと一緒にいられるんだけど」
 焦点の定まらない目で自分を見上げるアティの頬を優しく撫でながら、青年は言う。
「もう少しだけ寂しい思いをさせるかも知れない。だからね、せめてひとりくらいは、話し相手が欲しいだろう?」
 砕け散った心の空虚に、ものをはめ込むのは存外に簡単だった。
 これでもう、彼女が誰か他の者と自分とを比べる事もない。
 ……いや、他の誰かと同じように『自分も守りたいのだ』などと言い出す事もない。
 -―――自分『も』守りたいのだ。などと。
「僕はね、アティ。昔から何かに依存しなければ存在できない類の人間だったらしい」
 レヴィノス家の末子。アズリア・レヴィノスの弟。
 無色に与する者。軍に属する者。
 ただの人間としての肩書きなどないに等しい。誰もが皆同じ事しか言わないのだ。

 ―――ああ、あのレヴィノス家の。

「……もっとも、それは姉さんも同じことだったんだろうけど」
 女であるというハンデを負ったまま上級軍人を目指した。彼女もまた、恐らくは同じ思いを抱いたに違いない。
「けどね……姉さんには君がいた」
 私をレヴィノス家の者としてでなく、ただの友人として見るのだ。
 そう語った姉の言葉を思い出す。
 そう、きっとこんな風に。
「ずっと昔から、僕は姉さんが羨ましかったけど……、その時は本当に、本気で妬ましいほど羨ましかったよ」
 ……いいや、違う。こんな風では、きっとない。
「アティ。僕を呼んで」
 戯れのような、青年の言葉。語尾が微かに震えたのは気のせいなどではあるまい。
 ―――けれど、それに気づくものは最早ない。
「イスラ」
 請われたとおりに、アティはその名を紡ぐ。けれどそこには何の感情もなく、風が通り抜けていくに等しい空虚しかない。
「……ふ、はは……はははっ……あはははははっ……!!」
 不意に青年が笑い出しても、驚く様子も困惑する様も見せず、ただぼんやりと笑う青年を見上げたまま。
「ふはは……なんでもないよ、なんでも……」
 言いながら、ゆらりと体を動かして、青年は壁の一角―――先に、戻ってきたとき携えていたモノを放り投げたあたりへ歩いていった。
 崩れかけた瓦礫の中に目当てのものを見つけると、掴み上げ、半ば自らの体で隠すようにしながらアティの元へ持ち帰る。
「どんな君でも、僕だけを見てもらえるならそれで良いと思っていたよ……。始めにあんな接触の仕方、するんじゃなかった」
 ただの、なんの肩書きもない一個人としての自分を……、まるごと受け容れてもらったかのような錯覚。
 嘘と虚栄で上塗りした幸せの錯覚。味合わなければよかった。直ぐに壊れる偽りの幸せなど。
「だから、剣を折ることも躊躇わなかった。そうでもしなきゃ君がこうやって僕を見てくれることなんてなかったろうから。だけどね……」
 どん、と無造作に、イスラは手にしていたものをアティの眼前に放り出した。
 ごろごろと転がって、床の上に止まったソレを目にしたアティの目が見開かれる。
「物足りないんだ。今の君じゃ、どうしようもなくッ!!」
 そう、吐き出した青年の言葉が届いたのか、どうか。
 アティは呆然と目を見開いたまま、目の前にあるものを凝視していた。
 青白い頬に、飛び散った血が髪を張り付かせ、そのまま乾いて赤黒く光っている。
 かつて在った強い光も優しい光もなにも宿さない目は、矢張り紙のように白い瞼の奥に閉ざされ、表情は安らかに見えた。表面上は。
 イスラが切望したように彼女に名を呼ばわれ、それと同じように彼女の名を紡いだであろう唇も固く引き結ばれ、端の方から一筋、紅く乾いた血の跡が顎へと伝い落ちていた。
 けれどその先に繋がるべきものは……
「話し相手が欲しいだろう、アティ? もっともこいつじゃ一方的に君が喋るしかないんだけどね」
 無残にも削り取られ、皮一枚で繋がったのを引き千切られた、赤黒い断面を覗かせる、それは人の……
「ほら、嬉しいだろう? 君はこいつとは随分仲良しだったみたいだからね……もっと喜べよ……、怒れよッ!!」
 叩きつける言葉のまま、青年は目の前のそれ―――既に心も魂も命さえもない肉の欠片―――を蹴りつけた。
 がつんと壁にぶつかって鈍い音を響かせたそれは、床に落ちてごろごろと転がり、まだ乾いていなかった粘つく血をあたりに撒き散らして止まった。
「はは、ははは……あはははははっ……!!!」
 狂ったように哄笑する青年を、アティは矢張り焦点の定まらない瞳で見上ている。
 ―――青年は気づかない。その瞳の奥に宿っていた最後の何かが暗いもので塗りつぶされていくのに。
「……そう……こいつはお気に召さなかったかい、アティ……」
 それに気づかないまま、イスラは笑うのを止めてそう言った。
「そうだね……君の周りには、まだまだ沢山いたからね……ふふ、ふははは……はは……」
 楽しげに紡ぎながら、肩を震わせる青年。それが怒りなのか、悲しみなのか憎しみなのか、最早彼自身にもわからなかった。
「……なら、毎日ひとりづつ連れてきてあげよう……一度に皆連れてきてもいいけど、それじゃつまらないだろうからね……」
 一人づつ、じわじわと追い詰めていこう。鼠をいたぶる猫のように。
 そうすることで、彼女の目に失われた何かが―――憎しみでもいい。空虚以外の何かが灯るのなら、それで。
 青年は気づいていない。否。気づかないフリをしている。
 そんなことをしたところで砕けたものは元には戻らないこと。
 唯一存在していた戻すべき手段を自らの手で壊してしまったこと。
 ―――そうしたくなるほど、己こそ唯一であれと願いつづける自分自身の感情。
「それじゃ……少しだけ出かけてくるよ、アティ……直ぐに戻ってくるから、さっきみたいなお楽しみはナシだ」
 ぼうっとしたままのアティの裸身に彼女自身が身に纏っていた白いマントを被せかけてやると、青年はそう言って踵を返した。
 日の光が差し込んでいた天井からは何時の間にか昇った月の光。
 宵闇の空が一瞬真白に輝いて、変貌を遂げた青年はそのまま遺跡を後にした。


 ―――青年は知らない。


 後に残された彼女が不意に立ち上がり、彼が残していった『手土産』によろよろとした足取りで近づいていったこと。
 裸身が血に濡れるのも構わずにそれを両手で抱き上げて胸に抱え、暫し呆然と座り込んでいたこと。
 ―――やがて、その瞳からぼろぼろと涙をあふれさせ、嗚咽に声を詰まらせながら「ごめんなさい」と繰り返し紡いでいたこと。
 そうする彼女の目を昏く黒いものが完全に覆い隠していったこと。
 壊れる直前に、最後に残った彼女自身が呟いた、首の主の名。


 青年は知らない。


 島の全てが暗黒に……、絶望が名前を変えた暗黒に飲み込まれつつあること。
 そして、それからは決して逃れられないということを。
 ―――けれど、それこそが『彼』の願ったことなのかも、知れない。


おわり

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