ヤッファ×ドライアード・3



鹿に似た蹄が空を跳ねる。
幻獣界から招かれた心を見透かす聖獣は小さき盟主の願いを読み取り、多くの獣に傅かれ途方に暮れるドライアードの前へと降り立った。
軽やかな音を立てて聖獣ジュラフィムが脚を地面へと打ち鳴らすと、踏みしめた足元から周囲へ虹色の魔力の波紋が広がる。
ジュラフィムの“鎮める息吹”を受けた獣達はその目に正しき光を取り戻し、静々と己が巣へ戻りだした。
「ありがとうございます、気をつけて帰って下さいね〜」
マルルゥの礼に嘶きを一つ返してジュラフィムは送還の輪を潜り消えていった。

取り残されたのはジュラフィムに手を振り見送るマルルゥと、しょんぼりと肩を落としたドライアードの二人だけ。
ドライアードは自分の招いた不祥事にこれ以上無いほど落ち込んでいた。マルルゥでなくとも慰めの言葉をかけずにはいられない程に。
『す……すみません……私ってばこんなドジを……』
「大丈夫ですよぅ、マルルゥなんてもっとおっちょこちょいなんですから」
しかし根が真面目なドライアードは一旦沈みだすと中々立ち直る事は出来ない。意識はどんどん下方へと向かって突き進んでいく。
『私、メイトルパでも同じドライアードの皆に言われてるんです。貴女は何かあるとすぐにパニックになる癖をなんとかしなさいって……

私達の能力は無闇矢鱈に振りまくと大変な事になるって』
「大変な事?」
『はい、対象を絞らずに魅了の風を巻き起こしてしまうと、大人しく従ってくれるものだけでなく、術が解けた途端に襲い掛かってくるよ

うなものまで呼び寄……』
その言葉が最後まで紡がれる必要は無かった。正に今、言葉通りの事態が起きようとしていたのだ。


突然、草叢から飛び出した二本の細長い何かが二人に向かって襲い掛かった。
「わわわっ!?」
『きゃあっ!』
触手のようなそれは瞬く間に二人を絡め取る。手足を封じられ身動きの取れない状態で、なんとか首だけを動かし触手の元を辿った。
その先には草花の葉に似た緑から本来の姿である濁った緑黄色へと戻りつつある粘性の異形が、眠りを妨げられた怒りを露に這い寄る姿。
定まった形を持たない体に浮かぶ、ぎょろりとした目玉が二つこちらを見ている。
『そんな、ジェルベノムの亜種!? 擬態していたなんて……!』
本来なら廃鉱などに生息し、人里には近寄らない筈のジェルベノムであるが、得てしてスライムと大別される彼等は非常に環境適応能力が高く、どんな場所にでも住み着きその場に合わせた能力を有する。
水を操るもの、体内に猛毒を有するもの、何故か金色に変色してしまったものまでいる。
保護色を用い、擬態の能力を備えた種が現れるのも道理であった。
ただ、多くの種に進化した彼等にも共通する点がある。
それはどんなものであろうと捉え、吸収しようとする雑食性。
ドライアードはたとえ意思の疎通が出来なくとも、本能にのみ突き動かされるこの魔獣が何を狙っているのか手に取るように分かってしまった。
自分の想像した恐ろしい光景に戦慄する。どうにか脱出をと身体を捻るも、伸縮性がある腕には為す術が無い。
「待っててください、今マルルゥの召喚術でっ!」
マルルゥの全身に魔力が漲る。しかし力の流動を敏感に感じ取ったのか、ジェルベノムはマルルゥを掴む腕を大きく振り回し、勢いを乗せて大地へと叩きつけた。
「っ…………!」
『ま、マルルゥさんっ!!』
ろくな受身すら取れずに地面に激突したマルルゥ。いかにも細く打たれ強さなどという言葉とは無縁そうな身体は、遠心力と重力の加算された強烈な一撃に耐え切れず意識の糸を手放した。


小さき脅威が沈黙したのを確認し、再び虚ろな目がドライアードへと向けられる。
どうやら、先に食べ甲斐がある方を片付けようというつもりらしい。ずるり、ずるりと鈍重ではあるが確実に、哀れな獲物へと近づいていく魔獣。じわじわと近寄る姿は恐怖という名のナイフとなり、理性を削っていく。
『イヤァッ! 誰か、誰か助けてぇっ!!』
魅了の術は身体を雁字搦めにされて使えない。半ば半狂乱となってドライアードは泣き叫んだ。
だが花の妖精であるマルルゥならともかく、ドライアードの声は他者に聞こえる事は無い。
いよいよ目前まで迫り、壁のように立ち上がったジェルベノムの姿は、ドライアードにとって絶望を象った絶壁としか見えなかった。



「…………」

――何か、イヤな予感がしやがる。

結局あれから無為な時間を過ごし続けていたヤッファは、突如むくりと身を起こした。
立ち上がった時に響く脇腹の痛みに、バンダナの下の眉を顰める。
見上げれば空には上弦の月と金砂のような星。照らされる地には森の影。耳を澄ませば虫の声が其処彼処に響いている。
どうということはない、何時もの夜の光景だ。
何かが語りかけてくる。

――いや、違う。聞こえぬ音を風に訊け、見えぬ姿を地に尋ねろ。お前の世界は小さくそして自然は全てを識る賢者である――

それはユクレスのお告げか幻獣界の意思か、或いは――ヤッファの中に息衝く獣の本能か。
これまでの護人としての経験と亜人特有の鋭敏な感覚による直感は、ファルゼンの生命力を視る霊感やアルディラの正確無比な計算とは真逆に位置する、論拠の無い危機回避能力。
あやふやな未来予測ではあったが、ヤッファは何よりも自分のそれを信頼し、その結果、幾度と無く窮地を切り抜けて来た。

今宵の闇の何処かで、何か良くない事が起きている――

そう確信したヤッファは、もう次の瞬間には自らの怪我も忘れ、愛用の爪を手に走り出していた。
「丁度良い、あのまま塒にいるよかずっと気が楽だ。今夜だけは面倒起こすバカにも感謝してえ気分だな……」
苦笑を浮かべながら駆ける。まるで心にかかる靄を振り払うかの様に。
だが、その先にいるのが、己の心に刺さる棘の原因である彼女などとは、流石に彼の直感でも知り得ない事だった。

森の入り口にまで辿り着いたヤッファは、常人では凡そ気付くはずもない微細な異常を感じ取った。
風に乗って運ばれてくる、極上の蜜にも似た香り。
ヤッファだからこそ嗅ぎ取れた香りは、森の奥からか細い蜘蛛の糸のように流れてきている。

「こいつは……」
よく知っている。
間違える筈も無い、あいつの匂いだ。

刹那、見開かれた瞳と、紅い線が過ぎった。

「くそっ……何でよりによって……!」
苛立ちを含んだ口調で吐き捨て、両の手を翳し魔力を高める。
境界線から絶えず注がれる濃密なヤッファの魔力はやがて手の間に真紅の炎の形を取り、帰る事の叶わない故郷との境を燃やし尽くす。
緑石の輝きに応じ、コートを羽織り時計を手にした兎のような幻獣が彼方より馳せ参じて来た。
「降りろ、クロックラビィ!」
ヤッファの命に従い、クロックラビィは勢いを殺さず彼の魔力が焼いた異界の壁を通り抜ける。
リィンバウムへと現れた時を追う幻獣は、召喚主へと自らを降臨させ、手に持つ神秘の時計の力を顕現させた。
加速していく時間。周囲の全てが緩慢に感じる。
疾風となったヤッファは、黒き口を開ける森へと飛び込んだ。



視界が滲む。吐く息が熱い。
『はぁ……はぁっ……』
手が虚空を掻く。玉の様な汗が浮かぶ手は何も掴めず、それでも飽きる事無く繰り返される。
『嫌……嫌ぁ……』
肌を伝う汗は、頬にまとわりつくジェルベノムに吸われ消えていく。
何で。どうして。
自分にも御することの出来ない身体の熱さに、困惑と悲嘆の涙が零れ落ちる。
全身を搦め取られたドライアードは、這い回る粘体のおぞましさと未だ経験したことのなかった感覚に翻弄されていた。
身体中に満遍なく拡がり覆うジェルベノムの本体。
緑黄色が触れる場所から、ちろちろと燻る熾火のような熱が、抑え込まれた身体を炙り内へと潜り込んで来る。
指、肩、首、臍と、ジェルベノムの僅かな動きが肌を擦るだけで、自分にもこんな声が出せたのかという艶を含んだ嬌声が上がるのを止められない。
形良く柔らかな曲線を描く双丘を撫でられた時には、頭の中を見えない衝撃に殴りつけられ、悲鳴を上げて思い切り背筋を反らせてしまった。
意識が溶かされていく喪失感。抵抗しようにも、全く力が入らない。くたりと伸ばされた手で、辛うじて指を曲げる事が出来る程度。
『……ああぅ……あっ…………はぅ……んっんぅ……』
ドライアードは気付いていない。己の声が、否定の意を含まなくなってきている事に。

何かが来る。
濁った白に染められた頭に、ふわりと浮かんできた感覚。
漠然とした予感は、股間へと伸びるジェルベノムの動きを察知した女としての忌避か。
『やっ、そこ…………は……っ……ほ、本当に、だ…………め……!!』
砕け散った硝子のような理性の欠片を掻き集め、首を横に振る。
理解した。そこに触れられたら、自分は堕ちると。そして今以上の刺激に、心は押し流されてしまうと。
そんなドライアードの意思を押し退け、無慈悲な侵略者が誰にも許した事の無い場所を蹂躙していく。
『あ……あ、あ……あああっっ……』
葉に覆われ隠されていた聖域へと、遂に手が届いた。
くちゅり、と濡れた音が漏れたのは、果たしてジェルベノムの粘ついた体によるものなのか、それとも別の何かが水気を湛えていたからなのか。
ドライアードの視界一杯に白光が爆ぜた。

月満ちる夜に昂る身を抑えられず、誰にも知られない様にひっそりと、恋い慕う彼を想って自らを慰めた経験がある。
あの時に歯を食いしばって声を出さぬようにと耐え凌いだ快感は、全くの入り口でしかなかったことを、この瞬間に知らされた。
『ひうううぅぅっっ!?』
下から上へと突き上げる快感の雷撃に撃たれ、想像でさえ届かなかった頂へと押し上げられる。慄きに身を震わせながら、再び反り上がる華奢な背中。びくんびくんと幾度かの痙攣を繰り返し、やがて地面へと沈み込んでいく。
だらしなく開いた口は閉じられず、はあはあと荒い息を繰り返していた。だがしかし、いくらドライアードが篭る熱を吐息に含み外へと放っても、内に宿ってしまった炎が消える事は無い。寧ろ益々燃え上がっていくそれに、言い様の無い惧れが湧き上がってくる。

――ああ、私、もう……

『ち、がう……あっ……そん、な……ふぁっ』
何時の間にか、ドライアードの中にもう一人の彼女がいた。内から囁く声に、必死で抵抗する。

――どうして我慢しているの。こんなに……

『だめっ、だめだめだめぇっ……』
耳を傾けてはいけない。そう思えば思うほどより鮮明に彼女の声はドライアードに響き心を擽っていく。

――このままでもどうせ食べられちゃうのよ。ならいっその事受け入れてしまえば

『たべ…………られたく……な……っ、あっ! 胸ぇっ!! 胸だめぇっ!!』
彼女との対話に全精神力を費やしていたドライアードは、突如揉みしだかれた乳房に悲鳴を上げた。

――貴女も本当は分かってるんでしょう。自分の身体が悦んでいる事を

『あーっ! ああああっ!!』
股間を撫で上がる感触に折れてしまいそうな程反り返る背中。もう、堪えているのが自分なのか、語りかけているのが自分なのか分からない。

――そうよ。今思った言葉を口にすればいいの。そうすれば楽になれるから……

『わ……わたし…………』

――大丈夫、正直な貴女を責める人なんて誰もいない

『き……』



まるで月の光そのものを具現化したかの様な三条の閃きが、ジェルベノムをずたずたに引き裂いた。



「おい! しっかりしろ、オレが分かるか!?」
ジェルベノムの屍骸を引き剥がしながら、ヤッファはドライアードを抱き上げた。
身体を覆う美しい緑は半ば以上溶け落ち、彼女の美しい曲線を露にしている。
「――――」
熱病に冒されたかのように火照った顔、そして全身に吹き出る汗。もしかしたら毒を受けたのかもしれない。
ヤッファの脳裏に最悪の結末が像を結ぶ。
一瞬でも弱気になってしまった自分を殴りつけた。
「馬鹿野郎、こんな時に護人のオレが弱気になってどうすんだ……! 絶対助けるからな、ちょっとの間だけ辛抱してく……」
ドライアードを胸に抱き、再び森の出口へと駆け出さんとしたその時、突如ヤッファの首に絡み付く腕。

「――――」
彼には聞こえない言葉で何かを呟いたドライアードは、逞しい腕に抱かれたまま身を起こし、潤んだ瞳に驚いた表情のヤッファを映しながら口付けをした。
急に起き上がったドライアードにバランスを崩され、もつれあうように倒れこむ二人。
ヤッファの上に跨るような形となるドライアード。月の光を剥き出しの背に受け、彼女は微笑を浮かべる。
だがその笑みは何時もの慈愛に満ちた優しいものではなく、見るものを誘い搦め取る魔性の仮面だった。
心に漣が走るのを自覚しながら、幻獣界の花妖の本質を今になって思い出す。
目の前の彼女がまだ成熟してはおらず、どちらかといえば温和な性格な事もあってすっかり忘れていた。今の彼女の姿こそが、彼女達の一族の本当の姿である事を。
月光に中てられたか。いや、まだ満月には何日か間がある。
となれば、彼女の豹変の原因は一体――

“ヤッファさん、私の声が聞こえますか?”

頭に直接声が響いてきた。
自分の上に乗る少女の声。聞く者の心に涼やかな風を呼び起こすようなそれも、今はどこか媚びた響きでヤッファの脳を揺さぶる。

「何だ、声が……」
“やっぱり夢なんですねこれは……夢でも嬉しいです、最後にヤッファさんとこうして抱き合う事ができるなんて”
くすりと、楽しげに囁く。
「何言ってんだ目を覚ませ。今のお前はおかしいぞ。そんな笑い方するようなヤツじゃねえだろうお前は」
自分の声がやけに遠く聞こえる事に危機感を覚えるヤッファ。ドライアードの声が聞こえてくる時点で、彼女の術中にあるのは間違い無い。
ここで自身をしっかり保たないと、絶対に間違った方へと突き進んでしまう確信がある。
だというのにドライアードはヤッファへと擦り寄り、息が触れる程顔を寄せて彼を蟲惑する。童顔ともいえる顔立ちに不釣合いな大きさの丸みが、厚い胸に潰され拡がっていく。


“やめません。こんな幸せな夢なのにどうして覚めないといけないんですか。私、本当はずっとこうなることを夢見てたのに……”
「ずっと……だと?」
“はい。ヤッファさんが好きでした。逞しい背中が、美しい鬣が、強い心が、鋭くてでも優しい眼差しが、全部が好きでした。この腕の傷だって、嬉しくて堪らなかったんです。吃驚したけど……”
そう言って愛おしげに肩を抱くドライアードの手の下には、一本の爪痕。

傷痕を見せられたヤッファに、悔悟の念が起こった。
「オレは……お前を傷つけたんだぞ。お前の惚れた野郎は、頭に血が上ると護る者も見えなくなっちまうような大馬鹿だ。そんな奴にいつまでも熱を上げてんじゃねえよ。もっといい男なんて世の中にゃ腐るほどいる」
自分の言葉でざわついた心を鎮める。
今の言葉は紛れもない本心だ。自分には戦うしか能が無い。誰かが傍にいると振り回す爪が当たってしまう事もある。そう、今日の夕日に見えた光景の様に。
だから、いつも独りであろうとした。そんな己の生き方をユクレスの皆は否定しなかった。若干一名、何も分かってないのもいたが。
“嫌ですっ! 私はヤッファさんがいいんです! 我を忘れる程逆上したのも、マルルゥさんと私が狙われたからなんだって知ってます。そんな優しい人がどうして独りきりで生きないといけないんですか!?”
初めてドライアードが声を荒げた。普段の気弱な彼女からは想像も付かない姿である。今まで嗅いだ事の無い強い芳香が周囲を取り巻く。
「お……お前……ばか、やめ……」
“私の夢なのに、どうしてヤッファさんはそう頑固なんですか。もっと私の思い通りになって下さい……”
自分の意思とは無関係に手が動き、柔らかな膨らみに触れる。熱い吐息がドライアードから漏れた。

まずい。絶対にまずい。
上手く説明できないが、とにかくこれ以上は進んではならない。
熱に浮かされた頭は、決して語るべきではない本音の扉を容易く開いてしまった。
「オレだって、お、お前の事、けっ、こ……う気になって……た……ん」
自分にさえ気付かせないようにしてきた思いを吐露する。誰だこいつは。何てこと言ってやがるんだ。
ヤッファの言葉に、ドライアードが泣き出しそうな顔で抱きついてきた。
“……夢で良かった。これが現実なら私、ショックで死んじゃいそう……”

――あー、これがミスミの言ってた据え膳食わぬは何とやら、ってオレ何考えてんだ……

完全に嵌ってしまったヤッファは小さなおとがいに指をかけ仰け反らせる。目を閉じ契りを待つ魅惑の少女にゆっくりと自分の唇を近づけ――



「何してるですかシマシマさん?」
「うおおおおおおおおおおおあああああああああああああああ!!??」



ドライアードとヤッファの間に割り込んだマルルゥの姿に、ドライアードを放り投げ自分は思いっきり飛び退いて後頭部を木に打ち付けた。

後にマルルゥがジュラフィムを喚び出し、ジェルベノムの毒が抜けたドライアードがあられもない自分の姿と倒れるヤッファを見て再び森中の獣を呼び寄せてしまったのは言うまでも無い。



一部始終を見ていた月は、ただ皓々と全てを明るく照らすだけ。
熱に浮かされ見た幻と流されてしまった、花精の少女の儚い想いも、孤高の虎人の秘めた心も、全て知る月は何も語らない。




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