二人の絆編〜夏美と綾〜 その7



 夢。幾度となく私を苛み続ける悪夢。それは思い出したくない過去の再生。
 あるいはまだ見ぬ生き地獄への恐怖からくる妄想の具現。そのどちらもが脆い心を容易くも引き裂いていた。眠りにつくたび、夢を見るたびに磨り減る心。
 苦痛。耐え難い苦痛。何度気が狂うと思ったことか。
 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 頭が壊れてしまう。とても正気でいられない。
 そして自分が壊れはてることへの恐怖がいっそうに私を苛む。
 ああ、いっそのこと壊れてしまえればどれだけ救われるのだろうか。
 甘い誘惑だった。それは甘い誘惑。いつも誘われ続けていた。
 その誘いへと傾く心。いつだって揺れていた。
 ふらふらと足を進める。一歩。また一歩。さらに一歩。あと少し。そうあともう少し。
 寸でのところで歩みはいつも止まる。手を握り締められていた。
 魅惑の園へと向かう私を繋ぎとめるその手。その持ち主をじっと見る。
 彼女はいつも笑顔を見せる。私の前ではいつも笑顔を見せるようにつとめていた。
 今にも泣きそうな笑顔だった。ふとした刺激で崩れ去ってしまいそうなほどの。
 目にも痛々しい空元気。だがその精一杯の気持ちで彼女はいつも私を繋ぎとめてくれた。
 彼女は忘れさせてくれた。辛い苦しみも。哀しみも。いや忘れさせてくれるようにつとめてくれた。
 そんな彼女のおかげで私はほんの少しだけ正気でいられた。ほんの少しだけの正気。
 僅かに残った理性で彼女に甘えた。彼女に依存した。もう彼女無しでは生きてはいられないほどに。
 私は考えなかった。考えようともしなかった。彼女がどんな思いで私にそう接していたのかを。
 必死だった彼女。あまりにも彼女は必死だった。そうしないではいられないほどに。
 分かっていたはずなのだ。本当は分かっていたはずなのだ。だが省みなかった。
 彼女が何ゆえにそうせずにはいられなかったのかということを。
 何もかもが手遅れになってから今さらに私は気づいた。
 必死になればなるほどに彼女はより深い沼地に足を踏み入れていったことに。
 私を守ってくれた彼女。私を癒してくれた彼女。私を支えてくれた彼女。
 そんな彼女に私が依存すればする程、彼女がそんな役割を果たすごとに彼女の心から余裕は消えた。強い衝撃を受ければ粉々に打ち砕けるぐらいに。
 遅かった。気づいたときにはもう手遅れだった。彼女は壊された。
 私のために犠牲になった彼女は身も心もボロボロに壊されてしまった。
 私は泣いた。悲しくて泣いた。大好きだった彼女が壊されてしまって。
 ああ、どうしよう。もう彼女に縋ることができない。そんな浅ましい私の心。
 だからであろうか。私がどれだけ彼女がしてくれたことの真似事をしても彼女が癒されることはなかった。
 そしてとうとう本当に彼女は壊れきってしまった。私が何度も誘われた倒錯の彼方。
 そこへと足を踏み入れてしまった。どこまでも深い奈落の底へと。
 彼女は私にともに堕ちることを求めてきた。ああ、それもいい。彼女と一緒ならばそれもいい。
 それがお互いにとって一番楽なことだから。彼女も私ももう苦しまなくて済むのだから。
 二人でこうして刹那的な快楽に溺れてしまおう。嫌なことは何もかも忘れて。
 それは楽園だった。延々と続く出口のない悪夢から解放された楽園。
 そこにいるのは私とあなたの二人だけ。他は何もいらない。いらないはずだ。
 いらないはずなのに…………
 でも私は我がままだ。どうしようもなく我がままだ。
 この期に及んで求めてしまう。諦めてしまったはずの夢想を。
 ごめんなさい。多分、私はあなたを余計に苦しませることになるのでしょう。
 でも……でも嫌なんです。我がままなんです。私は本当に我がままです。
 でも言わせてください。今だけは。どうか今だけは。
「戻ってくださいっ!!私の…私の大好きな夏美さんにっ!!お願いですっ!」 
 それは私の我がまま。今の私の切なる願い。
 大きく息とともに吐き出した言葉。それを発した後で上気する身体。全身に熱が回っていた。
 血液が沸きだしている。動悸する心臓はそんな熱い血を身体中に巡らせる。
 熱い。本当に熱い。小刻みに震える身体。綾の意思では止めようもなかった。
 ただ綾自身と同じぐらいの小柄な夏美を抱きしめながら震える。
 喉の奥から顔を出す嗚咽。危うくしゃくり上げそうになる。いっそのことこのまま泣いてしまいたかった。
「お願いです……夏美さん………」
 ひどい鼻声だ。それが分かる。それでもすがるようにして繰り返し囁く。
「戻ってください…私の…夏美さんに……」
 おそらくはただ呆然としているであろう夏美の身体。それをぎっしりと抱きしめる。
 腕に力をこめて。離さない。何があろうとも決して。
「嫌なんです……私……嫌なんです……」
 口から出る言葉はエゴ。だがそれを吐き続ける。
 ただエゴを相手にぶつける。自分の思いを。
「夏美さんが戻ってこないだなんてっ!!私の大好きだった夏美さんはもういないだなんてっ!」
 息が荒れる。声が上ずる。言葉は思考を経ずに飛び出てしまう。
「嫌です……やっぱりもう……嫌です……」
 涙で濡れる顔を夏美の胸に綾は埋める。顔をこすりつけて泣きじゃくるように言う。
「絵美ちゃんだけでもうたくさんなんですっ!私の大切な人がそんな風に壊れてしまうのはっ!!」
 縋りつきながら叫ぶ。思いのたけを。ありのままに。
「お願いです……夏美……さ……ぁ……ぅぁ……」
 吐き終わると嗚咽の虫が騒ぎ出した。肺の奥から喚きだすその鳴き声を押しとどめるものはいない。
「うぁぁぁっ……あぁぁああぁああぁっ…うぁぁ…あぁぁぁぁああっ!!」
 そしてそのまま綾は夏美の胸に顔を埋めたまま泣きじゃくる。

 どうして綾は泣いているのだろうか。夏美にはまずそれからして理解できなかった。
 そもそも今の状況はなんだろう。ただ綾と睦みあうことに興じた自分。
 そこからいかな経緯でこのようなことになったのかまともに思考が働かない。
 自分は何をしてた?それすら定かでない。そもそも自分って何?あたしは誰?
 自己の存在すら見失いかけていた。今あたしに抱きついて泣いてる女の子。
 誰だっけ?いや、綾だ。でもどうして綾が泣いてるの?どうして?
 疑問は夏美の脳を包む。疑問は思考を夏美に促す。止めてよ。何も考えたくないんだから。
 あれ?どうして?どうして何も考えたくないの?次の疑問。
 考えることを止めた。どうして?辛いから。それは何故?たどる記憶の糸。
 止めて思い出したくない。どうして思い出したくないの?頭が割れる。
 いっそのこと割れちゃいなよ。嫌だよもうあんなこと。あんなことって何?
 ここはどこ?あれは何?あたしは誰?何故?何故そんなことも分からないの?
 あたしはどっち?思い出すの?出さないの?嫌。思い出すのは嫌。正気に戻るのは嫌。
 それはどうして?辛いから。苦しいから。どうしてそんな風に思うの?
 どのようにしてあたしはそんな風に思うようになったの。
 繰り返される5W1H。英語の授業じゃあるいまいし。でも何故だろう。
 熱い。身体が芯から熱い。それは何故?それは何故?
 一度思考を停止した脳は一つのことから外れると途端にその機能が破綻する。
 すがりついて泣く綾。彼女がしきりに叫ぶ言葉。
『元の夏美さんに戻ってください』
 なんなんだろう?元のあたしって思い出せないや。いや思い出したくない。
 だってそれはとても惨めで、情けなくて。嫌だ。思い出してきた。
 止めてよ綾。何も言ってこないでよ。あたしは思い出したくないんだから。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。忘れたい。思い出したくない。このまま壊れてしまいたい。
 何でそんな風に思うの?まただ。止めてったら。
 そんな風に頭の中がこんがらがってる内に綾が泣き止んだ。
 いや違う。まだぐすぐすいってる。でも何か言ってきてる。
「……夏美さん……私……本当は気づいていました……」
 嗚咽しながら綾は言う。何に気づいたのだと言うのだろう?
 知りたい。でも知りたくない。ああ、まただ。本当にどうかしてる。
「気づいていたんです。でも……私は自分のことばかりで……」
 そう言うと綾はまた涙をポロポロ零す。どうして泣くんだろう?
 分からない。分からないよ。綾。
「……うっ……ぁ……ぅぅ…ぇ……ごめんなさい……」
 謝られた。何で?どうして?理解できない。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!!」
 綾はあたしに必死に謝り続けてくる。あたしには何がなんだか分からない。
 どういうこと?でもなんだろう。なんだか………
「…うっ……ぅ……ごめんなさい……夏美さん……」
 そうやって謝ってるうちに綾はまた泣いた。
 やだよ。泣かないでよ。綾に泣かれるとあたしまで……
 すると不意に綾は顔を上げる。涙のたまった瞳で見つめられる。
 やめてよ。そんな目で見ないでよ。耐えられない。この視線にあたしは耐えられない。
「夏美さん………」
 切ない眼差しがあたしを射抜く。胸がきゅんと詰まる。真っ直ぐにあたしをみつめる綾。
 目をそらしたい。でもなんでだろう?そらしちゃいけない。そんな気がする。
 じっと待つ。綾が言葉を紡ぐのを。
「本当は夏美さんも私と同じだったんですね……私と同じで……いつも……恐怖と絶望で……押しつぶされそうで……」
 ぽそりと囁かれた言葉。その言葉にあたしの頭から何かがすっぽりと抜け落ちた。


つづく

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