心の媚薬 前編



 月明かりに照らされた海が静かに揺れる。
 海賊船の甲板には、水面で黄金色に光る月をただじっと見つめ続ける一人の女がいた。
 彼女の名はアティ。赤い髪が印象的な、美しい女だ。
(……私、どうしてこんなことやってるんだろ)
 本当なら、もうすでに生徒であるナップを連れて目的地へと到着していてもおかしくはない。そして帰宅し、彼の親に報告をする。そういう予定だったはずだ。
 しかし……。
 アティは己の手を見つめる。
 あの時に頭の中に響いた声。あの剣。自分が自分でなくなるような、あの感覚――。
 正直に言えば、恐ろしいと感じた。
 ナップを守るために望んだ力。力を手に入れることで恐れるものはなくなるものだと思っていた。
(それが……その『力』に恐れることになるだなんて……)
 アティは自身の肩を抱きしめ、うずくまる。
 だが、それでも強い気持ちを胸に抱くことができたのは、彼女にとって密かな心の支えとなるものがあったからだった。
「……――さん……」
 ヒユウゥゥゥッ
 突然の風に、アティの帽子がふわりと舞い上がる。
「あっ……!」
 海に落ちてしまっては拾うこともできない。アティは慌てて帽子が飛んだ背後へと振り返った。
 そこには――。

「――ナイスキャッチだ。さすが俺」
「カ、カイルさん?」
 頭上高く手を伸ばし、アティの帽子を指先でとらえた青年が立っていた。
「あのボウズがあんたのことを探してたからよ。もしかしたらと思って来てみれば……ビンゴだったな」
 ほらよ、とカイルは帽子をアティに渡す。慌ててそれを受け取ると、アティはもう一度帽子を深々とかぶり直した。
 まただ。アティの胸が熱くなる。
 つい先ほどまで夜風をわずかに肌寒く覚えていた体が、今は熱を帯びている。
「どうしたんだよ、ずっとぼんやり突っ立ってて。悩み事でもあるのか?」
「えっ」
 ふいに顔を覗き込まれ、アティは思わず声をあげる。
 だが彼には心配をかけたくはない。そう思うアティは即座に笑顔を作り、ひらひらと両手を振ってみせた。
「ち、違いますよ、そんなんじゃあ。何となく月を見たいな〜とか思っちゃっただけで」
 その様子に、カイルは納得に欠けるという風に眉をひそめる。だがそれ以上はあえて詮索せず、すぐさま同様に笑顔を向けた。
「――そっか。でも夜風は冷えるからな。ほらよ」
 カイルは肩に引っ掛けているコートを脱ぐと、そっと彼女の小さな肩にかけてやった。
 彼のぬくもりが、コート越しにアティの背中に伝わる。
「……す、すみません」
 気づかれてはいけない。アティは顔をうつむかせる。
 月明かりで、赤く染まった自分の頬に気づかれるわけにはいかない。
 おやすみ、とカイルが言うも、アティはただ頷くだけで何も言葉を発することはできなかった。
ポケットに手を突っ込み、鼻歌交じりに去っていくカイルを無言で見送るアティ。
「ああ。あと」
 ドアノブに手を掛けたカイルが、再び振り返る。
「は、はいっ」
 急に声をかけられ思わず声の調子があがるアティに、カイルはニッと笑顔を浮かべた。
「あんたは笑ってる顔のほうが似合うよ。せっかくいい女に生まれてきたんだ。でなきゃ勿体無いぜ」

◇          ◇          ◇       

(いい女かぁ……)
 カイルのコートを腕に抱え、船内を歩きながら、アティは先ほどの言葉を何度も心の中で反復していた。
 彼にしてみれば何気なく口にしただけの言葉なのかもしれない。だが、アティにとってそれは、今夜の睡眠を確実に妨害される恐れがあるほどの代物であった。
(あの人は、私のこと何とも思ってないのかな。私が元気なかったから、お世辞を言ってみただけ?)
 これは一方的な想いなのか。夜風はすでにコートから彼のぬくもりを奪い去ってしまった。アティはコートに顔をうずめる。
 すでに冷たくなってしまっているが、彼の匂いは消えてはいない。毎日あれだけ騒ぐ彼の衣類なのだ、お世辞にもいい匂いとはいえないが、彼を思うアティにとって、その匂いは他の何よりも心を落ち着かせる効果があった。
 彼にもっと近づきたい。
 触れたい。触られたい。
 これと同じ匂いのする彼の胸に抱かれ――……。
「!」
 無意識のうちに、アティの足はカイルの部屋の前で立ち止まっていた。鼓動が高鳴る。腕の中のコートを見つめ、アティは唇を噛んだ。
 カイルが甲板を降りてから、すぐに自分もここへ戻ってきた。もしかすると彼もまだ起きているかもしれない。視線がドアノブへと泳ぐ。
(……そうよ、別になんてことないわ。貸してもらった物を返しにきただけ。その為に部屋を尋ねたっておかしくはないわ)
 うん、と頷き、ドアノブに手を伸ばす。だがやはり触れることができない。しばらくドアノブとの睨みあいの勝負が続き、結局――アティはそれに負けてしまった。
(ああ、私の根性なし……)
 力なくため息をつくと、アティはその場を立ち去ろうと後ろに向き直った。

「何やってんだ先生」
「きゃあっ!」
 いつの間にか真後ろに立っていたカイルの姿に、アティは悲鳴をあげてのけぞる。
「お、驚かさないでくださいカイルさん!」
「いや、俺も充分今のでビビったぞ……」
「はぁ……」
 脱力した息を吐くアティの視線が、その時カイルの手に持っている物へと移った。それに気づいた彼は、ああこれか、とアティの目の前にひょいと掲げる。
「ウイスキーさ。寝る前にちょっと飲みたくなってな」
「お酒ですか」
「俺のコート返しに来てくれたんだろ?せっかくだし、ついでにこれに付き合ってくれよ」
「わ、私がですか?」
 思っても見なかった彼からの誘いにアティはうろたえる。
「ああ、ダメなら別に――」
「い、いいえっ。付き合わせてもらいますっ」
 彼女に断る理由など何もなかった。
 お酒を一緒に飲むだけ。アティは高鳴る胸を抑え、カイルに導かれるまま部屋へと足を踏み入れた。

◇          ◇          ◇ 

 トクトクと心地のいい音を立てながら、グラスにストレートのウィスキーがなみなみと注がれていく。
「……あの……」
 あ然とするアティもお構いなしに、カイルは注ぎ終えたグラスを掴むと、それを一気にあおった。飲む音に合わせて喉が大きく動き、琥珀色の液体は凄まじいスピードで彼の口の中に消え去っていく。
「っかぁ―――ッ!やっぱ酒を薄めて飲むなんて邪道だよ邪道!召喚士で言うなら外道召喚士だな!」
「げ、外道……?」
 分かるような分からないような例えに、黙り込むアティ。そうこうしているうちに、再びカイルはもう一つのグラスにウイスキーを注ぎ始めた。
 まさか。アティの顔色が変わる。
「ほれっ先生も!」
 満面の笑顔で突きつけられるグラス。琥珀色の水面がタプンと揺れた。
 これを飲めというのか。彼のように。アティは彼の行動に軽いめまいを覚えた。
 だがここで断れば、カイルに不快な思いをさせてしまうかもしれない。アティは普段からそれだけは避けたいと願ってきたのだ。たとえ好意を持たれる事がなくとも、嫌われることだけは避けなければ――。
 アティはそれを両手で受け取ると、ゆっくりと唇に近づけた。こんなもの、ちびちび飲んでいてはとても耐えられそうにない。彼女は意を決した。
「んッ……!!」
 彼と同じように、一気に喉に流し込む。しかし。
「ッ!!ゲホッ、ゴホッ!!」
「お、おい、大丈夫かよあんた!」
 やはり慣れない酒をストレートで飲むなど無謀であった。カイルに背中をさすられながら、なおも咳き込み続ける。
「飲めないんだったら無理するなよ。勧めた俺も悪いけど……」
「……嫌われたくなかったんです」
 涙目で咳き込み、枯れた声でつぶやくようにアティが言う。
「え?」
 驚いた表情でカイルが聞き返す。その視線はまっすぐにアティに向かっていた。
 背中をさする彼の手が温かい。無理をして飲んだ酒が、アティの胸に火を灯したように熱い。唇が震える。

 アティは顔を上げ、再び口を開いた。
「――何でもないです。ごめんなさい、やっぱり今日はこれで失礼しますね」
 これ以上この部屋にはいられない。アティはごめんなさいと笑い、席を立った。
 静かにドアノブに手を掛け、廊下に足を踏み出そうとしたその時。
「待ってくれ。……何か、俺も気分が悪く……」
「カイルさん?」
 突然の彼の弱々しい声に、アティは慌てて振り返る。
 カイルはソファに腰掛けたまま、両手で頭を抱え、うなだれるように固まっていた。
「やっぱ調子に乗りすぎたかもしれねぇ、うぅ……」
 口を押さえ、低く呻き声をあげるカイルの姿に、アティは慌てて彼の元へ駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?ストレートの一気飲みなんてするから……」
「まったくだ……。わりぃ先生。ちょっと肩、貸してくれ……」
 彼の言葉にアティはうなずき、すぐさま彼の腕をとると、自分の首の後ろへそれをまわして立ち上がらせた。初めて触れたカイルの腕に、内心わずかな興奮を覚える。
「よいしょ……っと。もう休んでくださいね、カイルさん」
 カイルをベッドに何とか座らせると、アティはホッと息をつき、彼の腕を放そうとした。
 しかし。
「っ!」
 さっきまで垂れ下がるようにアティの肩に乗せられていたカイルの腕は、急にもとの力を取り戻したように彼女の肩を掴む。さらにもう一方の腕が伸び、アティの体を強引に抱きすくめた。
「ちょ、ちょっと!」
 反射的に逃れようと抵抗するアティの耳に、酒の匂いが混じった熱い息がかかった。
「……天然記念物モノだなぁ、先生。今時こんな手に引っかかる女なんかいねぇぞ」
 楽しそうに笑い、カイルはそのままぐいと顔を近づける。
 アティが何か言おうとするのと同時に、それをカイルの唇が乱暴に塞いだ。
 思わずアティは口を閉じるが、カイルの舌はそれをこじ開け、彼女の整った歯列をなぞっていく。
「んぅっ……!?」
 アティの口内に苦いウイスキーの味が広がる。
 テーブルに置かれていたアティのグラスは、いつの間にか注がれていたウイスキーを全て飲み干されていた。


つづく

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