さよなら。 中編



「ベル、起きて。もう朝だよ」
「う…ん……?」
眩しい朝日と共に慣れ親しんだ声が聞こえる。
大好きな、声。
ゆっくりと目を開けるとそこには鮮やかな緋色が広がっていた。
「今日は珍しく随分とお寝坊さんなんだね。何時もは俺がいつまで経っても起きないって責めるのに」
「…そりゃあ私だって寝坊の一つくらいはしますわよ」
視界に飛び込む笑顔に少し頬を膨らませて答える。
昔は絶対にできなかった子供っぽい反応。今だからこそできる。
ベッドから体を起すと同時にそのまま顔を近づけてキスをする。
彼は少し驚いたようだったけれど、そのまま受け入れてくれた。
当たり前の日常。ずっと望んでいた幸せな日々。それが今ここにある。
触れるだけの軽いキスをしてベルフラウはベッドから立ち上がる。
羽織っているものは少し大きめの男物のシャツだけであり、立ち上がるとシャツの端から伸びる美しい四肢が惜しげもなく晒される。
女性特有の丸みや柔らかさを含むそれは紛れもなく男を知った女のものであり、その美しく滑らかな曲線は同性でさえ魅了しそうな完璧なバランスを保っている。
真っ白な、まるで陶磁器のような肌理細かな肌には紅い無数の華が散っており、それは昨晩の情事を思い出させた。
「随分魘されてたみたいだけど、大丈夫?」
自分と同じく白い肌に紅い華を散らした彼が心配そうな表情で覗き込んでくる。
その紅い華がまるで独占印のようにいやらしく主張しているのにベルフラウは満足気に目を細める。
その態度を否定と取ったのか肯定と取ったのかは分からなかったが、彼はそのまま心配そうに言葉を続けた。
「怖い夢でも見たの?」
眉を下げてちょっと情けないような表情で自分を覗き込んでくる顔。
温もりが近くて安心する。
その顔を両手でそっと挟み込むとベルフラウは苦笑いで答える。
「なんでもない…なんでもないのよ。大丈夫、だって貴方はここにいるんだもの」
顔に触れた手を髪へと廻し、優しく梳く。
さらさらと擽る様に触れる髪にそっとキスを落とす。
まるで、彼がここにいることを確認するかのように。
髪から手を離すとベルフラウは徐にレックスの手を引き、歩き出す。
驚く彼にとびっきりの笑顔を向ける。
「それより、朝ご飯にしましょ。今日は久しぶりにデートに行くんだから急いで準備しなくっちゃ」
そう言って今まで見ていた夢の内容を振り払うかのようにベルフラウは寝室を後にした。
洗面台へと向かうと其処には色違いのお揃いの歯ブラシ。
彼は照れくさいから嫌だと言ったのだけれど、ベルフラウが無理を言って同じものを買った。
「まるで夫婦みたいよね?」と言ったら顔を真っ赤にして苦笑いを返された。
着ているシャツは彼の匂い。日常の至る所に彼の気配が感じられてそれが嬉しかった。
同じ食卓で、同じ朝食を取る。意外にも彼が料理上手だと知ったのは一緒に暮らし始めてから。
自分より上手かったのはちょっと癪に障ったけれど、それでも一緒に料理するのは悪くなかった。
幸せな日常。ベルフラウがずっと望んでいたものがそこにはあった。
「ところでさ、どんな夢見てたの?ベルが魘されるなんてよっぽど怖い夢だったんだろ?」
朝食に手をつけながらレックスが問う。その言葉にベルフラウは俯くと、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「…うん、まあね」
そこまで言ってベルフラウは口篭る。あまり思い出したくない。恐ろしい夢。
少し間を置いてから言葉を搾り出す。
「貴方が、いなくなってしまう夢を見たの…」
幸せな日常に相応しくない少し沈んだ声が漏れる。声音に隠し切れない不安が覗いた。
「変よね、貴方はこうして私の側にいるのにそんな夢見るなんて。でもね、本当に怖かったの。夢の中の貴方は全身血塗れで私に「笑えない」とか言うのよ。貴方なんて笑うことくらいしか特技がないのにそんなこと言うの。そうして、貴方は私を置いて消えてしまうの。まるで最初から居なかったかのように。それが悲しくて、夢の中の私は涙が止まらない…の……」
「ベル…」
言いながら涙が零れたのが分かった。雫が頬を伝ってテーブルへと染みを作る。
「お、おかしいわね。こんなことで涙がでるなんて。あれは夢のはずなのに。今は、幸せなはずなのに…!」
涙で視界がぼやける。あの人の顔が滲む。
幸せなはずなのにどうして涙が出るんだろう。
こんなに悲しい気持ちになるんだろう。
どちらが現実か分からなくなる。
あの夢が現実で、この幸せな日々が夢なのか。それともこちらが現実なのか。
夢なら覚めないで欲しい。そう思うのにだんだんと景色がモノクロに染まっていく。
優しい夢が終わるかのように。
嫌。嫌だ。もう離れたくない。側にいたい。
「先生っ…!」
気持ちが爆発して手を伸ばす。けれどそれは空を切る。
「え…?」
消える温もり。浮かぶ涙。それはあの夢と全く同じ――。
「嫌あぁぁああ!」

「ベルフラウ、しっかりなさい!」
強い声が自分を呼ぶ。
その声に意識が覚醒していく。夢を、見ていたのだと気付くのに少し時間を要した。
幸せな日々。それは全部幻だった。お揃いの歯ブラシなんてどこにもない。
あるのは、残酷な現実と目の前にいる馴染みの海賊の顔と無力な子供でしかない自分だけ。
そこに、彼の姿はない。たったどれだけのことなのにどうしようもない絶望が身を襲う。
「…また、あの日の夢でも見たの?」
自分を気遣う優しい声。けど、それは望んだものじゃない。
もう聞くことはできない声を思い出してまた泣きそうになった。
どうして彼はここにいないんだろう。
そこにあったはずであろう幸せな未来を夢見る度そんなことを思った。
「あの日」のことは今でも忘れていない。
目を閉じれば鮮明に思い出すことができる。

「せん、せぇ…!」
綺麗な顔を涙で汚しながらベルフラウはもうそこにはいない人物の名を呼んだ。
消えてしまった大好きだった人の名を。
その声に答える者はなく、嗚咽だけが紅く染まった遺跡に響いた。
「涙を拭いて顔を上げなさい、ベルフラウ」
突然声を掛けられてベルフラウは驚きに目を見開き、顔を上げる。
自分の隣に立つその人物に驚き、思わず名を呼ぶ。
「メイメイ、さん…」
床を染める血に似た色の衣装を靡かせながら彼女はそこに悠然と立ち尽くしていた。
そしてベルフラウの顔を見下ろしながら言葉を吐き出す。
「貴女が、決めなさい」
「―…何、言ってますの…?」
メイメイの言葉の意図が分からずべルフラウは問い返す。
ベルフラウの揺れる声にもメイメイの厳しい表情は変わらない。
硬質な響きを持つ声が遺跡に響く。
「貴女が、自分で決めなさい。選べる道は二つあるわ。
一つはここでのことを全て忘れてこの島を去ること。
そうすればこの島に来る前の平和な生活に戻ることができる。
これが、一番賢いやり方だわ」
「馬鹿、言わないでよ…」
メイメイの言葉を遮るようにベルフラウが口を開く。
その声は低く、けれど確かな激情を含んでいた。
「忘れられるわけないじゃない、あの人のこと!だって、好きだったのよ…ずっと…ずっと…。簡単に忘れられるような想いならこんなにみっともなく泣いて縋ったりしないわよ! 諦めたくないの…忘れたくなんかないのよぉ…」
忘れたくなんかない。諦めたくなんかない。
だって彼は確かにここにいた。触れた唇は温かくて優しかった。
けど、どんなに願っても彼を助ける方法なんて思いつかなかったから。
その事実と無力感にまた涙が流れた。
そんなベルフラウを見下ろすメイメイの瞳はそれでも厳しさをもったままだ。
その口から出るのは無機物のような声。
「もし、彼が貴女に忘れられることを望んだとしても…?」
「…そんな勝手な言い分、納得できるわけないでしょ…。忘れてあげたりなんかしないわよ…。例えあの人がそれを望んだとしても、私は絶対に忘れたりなんかしない。諦めたりなんかしない…!」
ベルフラウは涙を拭うと立ち上がる。
助ける方法なんて本当は分からない。
もしかしたらどうしようもないかもしれない。
けど、今助ける方法がないなら探すか作るかすればいい。
最後まで諦めない。それが、あの人が教えてくれたことだから。

「彼は、死んでなんかいないわよ」
「!」
突然のメイメイの言葉にベルフラウは動きを止める。
そんなベルフラウにメイメイは微笑みを向ける。
「剣の力を使いすぎて今は体がその負荷に耐えられなくなって一時的にその存在を保てなくなっただけであって彼は消滅してなんかいないわ。今の彼の体はもう「人」ではなく「剣」や核識に近いものになってるでしょうから。今もきっと、この島のどこかで力を蓄えてる。剣がある限りはこの島から離れることも死ぬこともできないだろうから」
メイメイはベルフラウを見据える。強い、その瞳。
その力強さはどこかあの人を思い出させる。
「きっと、貴女が選ぶ道は長く辛いものになるわ。それでも構わないの?」
「構うもんですか! どんなに時間がかかったって絶対にあの人を見つけ出してお説教してやるんだから。私を泣かせた責任、取ってもらわなくちゃ」
そう言ったベルフラウの目にもう涙はなかった。
可能性はゼロじゃない。
ほんの少しの可能性に自分の人生をチップにして全てを懸ける覚悟をもう決めたから。
この恋を、簡単に終わらせたりなんかしない。
絶望や不安を希望に変えて、ベルフラウは一歩を踏み出す。
もし、あの人が闇に捕らわれいるならその足元を照らす一筋の光になれればいい。
不安や絶望に怯えているなら大丈夫って言って抱きしめてあげればいい。
そして、とびきりの笑顔で言うのだ。
「おかえり」と。
沢山の思い出と一つの決意を胸にベルフラウは遺跡を後にした。
そこには不敵な笑みがあった。涙はもうない。


それから幾つも季節は巡った。
低かった背は伸び、体は女性らしい丸みを帯び、表情にも色気を感じさせる。
ベルフラウの体はもういなくなってしまった彼に釣り合う位に成長していた。
それはあの幸せな夢の中に生きる姿、そのものであった。
メイメイの言葉を信じてベルフラウはあの日から毎日島中を駆け回った。
島は思っていたより全然広くて、長い年月をかけても調べ尽くせそうになかった。
メイメイは言った。
「もしかしたら例え彼に会えたとしても、それは以前の彼ではないのかもしれないのよ?」
その言葉に恐怖がないといったら嘘になる。
それでも伝えなければならない言葉があったから。諦めるわけにはいかなかった。
毎日クタクタになるまで歩き回った。
ぐっすりと夢を見る間もないくらい深い眠りにつければあの人の夢を見なくてすんだから。
それでも、寂しさに耐えられなくなって心が壊れそうな夜は彼の使っていたベッドで眠った。
彼の匂いがして安心した。
結局、海賊達は島に残った。船の中の彼の部屋は手を加えられずにそのまま残してあった。
いつでも、彼が帰ってこれるように。
内緒で、彼が使っていた机を開けてみた。
沢山の物の中で彼の日記を見つけた。
男にしては丁寧な文字で書かれたそれには自分の名前が沢山載っていた。
言葉の一つ一つを聞き逃さず、きちんと聞いていてくれたのだと知る。
日記の間には授業で出した課題や作文が挟まれていた。
解読困難なお世辞にも綺麗とは言えぬ文字の答案は全部赤で添削してあり、大切に保管されていた。
あの人がどれだけ生徒を大事に思っていたか、初めて知る。
その中で、彼の肖像が書かれた紙を見つける。
自分でもいつ書いたか覚えてないくらい適当に書いたそれを、
彼はまるで宝物のように大切にしていたのだ。

どうして、もっとちゃんと書いてあげなかったんだろう。
もっと色んなことをしてあげたかった。
もっともっと色んなことを語り合えたはずなのに。
後悔だけが押し寄せて胸が締め付けられる。
彼がここに存在していたことを証明する物は沢山あるのに。
確かに側に居たのに。
それなのにどうしてだろう。
あの人の顔を思い出そうとしても思い出せない。
あんなに側にいたのに。あんなに好きだったのに。
顔も声も仕草も、何一つ思い出せない。
誰か、あの人の顔を思い出させてください…。
あの日から日付が止まったままの日記帳を抱きしめながらベルフラウは声を押し殺して泣いた。

夏の、日差しが強い日だった。
強烈な日差しを剥き出しの岩肌が反射して、視界に強い刺激を与える。
滲み出る汗に髪が張り付いて気持ちが悪い。
もう、その日もどれだけ歩いたか分からなくなっていた。
擦り傷だらけの足はもう上げるのすら困難だったし、呼吸も苦しかった。
けれど、諦めるわけにはいかなかったから。
ベルフラウは足を進めることを止めなかった。
「そろそろ疲れちゃったかしら?オニビ」
そう言って自分の側に歩くパートナーを抱き上げる。
弟分である彼の体にもまた細かい傷が沢山あった。
あの日から。
大好きだった人が消えてしまったあの日からベルフラウは島中を歩き回っていた。
あれから随分と時は経ち、島で探していない場所も残り少なくなっていた。
人が踏み入れるべきではない場所にまで危険を冒して入った。
少しでも、手掛かりを見つけたかったから。
その度に傷を作ったけど、気にならなかった。
あの日、心に受けた傷の方がずっと痛かったから。
誰もがもう諦めていた。
メイメイの言葉が真実だという保障はどこにもない。
希望が絶望に変わるのには十分すぎるほどの時間が流れていた。
それでもベルフラウだけは諦めなかった。諦めきれなかった。
「ごめんなさいね、つき合わせちゃって…」
「ビビー?」
抱きしめたオニビが控えめに声を上げた。
その姿は美しく成長したベルフラウとは違い、あの日から全く変わっていない。
「貴方も、先生に会いたい?」
細く白い指でオニビを撫でる。その指にも幾らか傷が見てとれる。
「ねえ、先生のこと覚えてる?」
日の当たらない岩陰に腰掛け、ベルフラウはオニビを撫でながら話し出す。
まるで、お伽話でも話すかのように優しく。
「本当に馬鹿な人よね…。いつだって自分より他人のことばっかり気遣って。いっつも誰かを庇って傷ついて…。心配するこっちの身にもなってもらいたいわよね、ホント。しかもこんないい女泣かせちゃって。本当に大馬鹿だわ…」
ベルフラウは知っていた。彼が戦いでついた傷のことを誰にも話さないでいたことを。
誰かを庇って傷を負っても「大丈夫、掠り傷だよ」そう言って平気そうに笑ったから誰もが安心していた。
けれど、本当は違った。平気なはずなんてなかった。
彼の部屋で血に汚れた包帯を見つけて、ベルフラウは初めて気付く。
怒って詰め寄ったらいつもの困ったような笑みで「誰にも言わないで」と返された。
今なら分かる。滲む血をその血と同じ色の服で隠していたのと同じように、心の傷を笑顔でひたすら隠していたあの人の弱さが。
どうして気付かなかったんだろう。
決して口にすることはなかったあの人の痛みに。
言葉にできなかった寂しさに。
独りきりで眠れぬ夜にそんなことを何回も悔いた。
「でもね…好きだったの……」
言葉共に涙が零れた。けれど、その涙を拭ってくれる人はもういない。
水道の蛇口のように止め処なく流れる涙がオニビの体に落ちる。
「本当に馬鹿な人だったけど…それでも好きだったの……。どうしようもないくらい好きだったの…!」
いつ好きになったかなんて分からなかった。
気が付けば好きで好きで仕方なくなっていた。
手を繋いだら優しい素直に気持ちになれて、初めてキスされた時は嬉しくて心臓が止まりそうになった。
大好きだった。離れたくなんてなかった。ずっと側にいたかった。
でも――。
「こんな想いするくらいだったら出逢わなければ良かった…! 嫌いになって忘れられれば良かった…!」
嫌いになれたら。忘れられたら楽になれたのに。
出逢わなければ寂しさに泣くことも、恋を知ることもなかったのに。
叶わぬ夢に想いを馳せることもなかったのに。
でも本当は分かってた。
出逢わなければきっと自分は永遠に寂しさを認めることのできない哀しい人間にしかなれなかったことを。
誰かに縋って泣くこともできない寂しい大人になっていたことを。
出逢った事を後悔する以上に与えてもらった喜びは大きかったのだ。

「…ごめんなさい、泣いてばかりじゃダメよね。さあ、行きましょ。まだまだ先は長いんだから」
涙を手の甲で拭うとベルフラウは立ち上がる。そしてしっかりとした足取りで歩き出す。
ベルフラウを急かすかのようにオニビが前を走る。
そのオニビの後を追うかのようにベルフラウの足も速くなる。
いつもは後ろからついてきているオニビが今日に限って前を走るのは不思議だと思ったが、先ほどの話で彼もまたあの人に会いたくなったのだろうと深く考えずにいた。
オニビの走るスピードはだんだんと速くなり、ベルフラウも歩いているだけでは追いつかなくなる。
「ま、待って、オニビ!」
ベルフラウが声をかけても振り返ろうともしない。
全く疲労など感じていないかのような速さで先を行くオニビを追いかけ続けると、気が付けばそこはゴツゴツした岩場ではなくしっとりとした植物が多い茂る密林だった。
今まで一度も見たことのない植物が何かを守るかのように四方八方に広がっていた。
まだ太陽は沈んでいないはずなのに陽は差し込まない。
様々な色を放つ蛍にも似た光が舞うその森はどこかこの世のものではない雰囲気を醸し出していた。
未知との遭遇に本来なら恐怖で足が竦むはずなのに、何故か気持ちは安らいだ。
この島にこんな場所があったなんて知らなかった。
もしかしたら誰もが知らないのかもしれない。
だって、自分はどうやってここまできたか覚えていない。
異世界を彷彿させるその森をベルフラウはオニビを追って少しずつ進む。
暫くあるいた所に植物に覆われ、まるで隠れるかのように佇む建造物を見つける。
その建物の造り、石の冷たさや硬さにベルフラウは覚えがあった。
封印の遺跡――それとほぼ変わらぬ物がそこに存在していた。
オニビはその中に入っていったらしかった。

恐る恐る廃棄された遺跡に中に足を踏み入れれば歩く度足元から硬質な高い音が響いた。
そっと冷たい岩壁に触れるとまるで遺跡が呼吸しているかのような錯覚に襲われる。
遺跡の中には森に舞っていた光と同じものが飛び交っており、その光のお陰で視界には困らなかった。
「ビービビー」
「オニビ!」
遺跡の奥で大切なパートナーを発見し、ベルフラウは駆け寄る。
心なしか精気が失われているかのように見えるのはここまでの長い道のりのせいだろうか。
「良かった…心配させないでよ…」
そっと手で触れて、抱き寄せようとするがオニビはその手をすり抜けると更に奥へと導くように歩を進める。
オニビの向かった方へ目を向ける。
ドクリ、と心臓がなった。
瞳孔が開ききったかと思うくらい目を見開く。
息が止まる。
手が震える。
体が熱くなる。
頭が考えることを放棄して真っ白になる。
あの日から、ずっとモノクロなままの視界に映る鮮やかな緋。
大好きな色。
止まっていた時が動き出す。
高鳴る鼓動。
踏み出す一歩すらスローモーションのように感じる。
「先生っ!」
何年も何年も想い続けた姿をそこに見つけてベルフラウは叫んだ。
また夢を見ているんだろうか。
でも、夢だったらこの足の痛みも疲労も説明できない。
夢なんかじゃない。幻なんかじゃない。
「先生っ…先、生…レックスッ……!」
気を失ったまま力なく遺跡の奥に眠るその体を抱きしめる。
別れたあの時よりずっと強く強く。
抱きしめた体が温かくて涙が出た。
あの日の温もりと何ら変わりのないそれは彼がここにいる証だった。
「せんせぇ……」
まだ意識を取り戻さない彼の額にそっとキスを落とす。
「―…ぅ、ん………?」
ベルフラウの声と温もりに気付いてか、腕の中で愛しい温もりが目覚めるのを感じた。
ゆっくりと瞼が上げられその隙間から透き通った水晶の様な藍が覗く。
意識が完全に覚醒しきっていないレックスに手を伸ばし、ベルフラウはその頬に触れる。
そうして満面の笑顔を向ける。
あの日から、ずっと作ることのできなかったそれが自然に浮かんだ。
「おかえりなさい」
ずっと言いたかった言葉が優しい音となって唇から零れた。
微笑んだ目の端から溢れる雫は光を受けてまるで雪か宝石のように輝く。
それを拭うかのように少し体温の低い手がベルフラウの頬に触れた。
指先で零れた宝石を拾いながらレックスの口が開く。
ゆっくりと、別れる前と同じ音色が新たな言の葉を生む。
「―…君は、誰…?」
懐かしく優しい声音が吐き出したのは拒絶にも似た、あの日告げられた「さよなら」より残酷な言葉。
ベルフラウは全身が氷のように冷えるのを感じた。


つづく

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