二本の一方通行路 後編



「ケンカの観賞代、明日のご飯で負けてあげるわね?」
 突然ドアを開けられ、驚いたようにこちらを見あげるソノラに冗談めかして微笑むスカーレル。
 だがその時、彼女の目が赤みを帯びている事に気づいた。
 ソノラは泣いていた――、その事をスカーレルは瞬時に悟る。
「……ソノラ」
 スカーレルはそれ以上何も言わず、ソノラの頭を優しく撫でると、カイルのほうへと振り返った。
「それじゃあアタシ、部屋に戻るから。おやすみなさい」
 笑顔を浮かべ、カイルに向かって軽くウインクする様は、まるで先ほどまで廊下に響くほどの喧騒をおこなっていたとは思えないものだった。
 あっけにとられたように頷くカイル。
 スカーレルは手を振ると、そのままソノラの横を通り抜け、廊下の奥へと姿を消していく。
(スカーレル……)
 意外にもそっけなく立ち去っていった彼の後ろ姿を、ソノラは見つめ続けていた。
 姿勢のいいすらりとした背筋は相変わらずだったが、彼女の瞳に映るその背中は、なぜか重々しく見えた。
「…………」
 三人は、まるで部屋に取り残されたかのようにぽつんとその場に立ち尽くしていた。
「――カイルさん」
 つぶやくようにアティがその名を漏らすと、カイルは息をのみ、慌ててソノラの方へと視線を向ける。
 そういえばスカーレルと言い争っていたせいで、肝心のソノラに謝るという事をすっかり忘れてしまっていた。きっと今の彼女の顔は、怒りか悲しみか――どちらかの表情でこちらを睨んでいる事だろう。
 そう思いながら恐る恐る視線を顔の方へとずらしていく。
 ――しかし、当のソノラは意外にもその目をカイルには向けておらず、ただ不安げにドアの外を見つめていた。
「お、おい。ソノラ?」
「……え?あっ」
 カイルが声をかけた事により、ソノラはようやくその目を彼に向けた。
 何となく落ち着きのない様子でゴメンと謝る彼女に、カイルは慌てて首を振る。
「いや……謝んのは俺のほうだ、悪かった。……その、夕飯の時の事」
 そう言いながらソノラにゆっくりと歩み寄ると、カイルはその場にしゃがみ込み、ひざをつく。
「!?ちょっ、アニキ!」
 まさか今日一日で二人の人間に土下座をされるとは思っていなかった。いつもの彼では到底考えられないその行動にソノラはうろたえるが、カイルは構わず言葉を続ける。
「今日はお前に……本当にひどい事をしちまったと思ってる。お前の気持ちに気づいてやれていなかったとはいえ、いくらなんでもあんな事……」
 眉をひそめ、苦しげな面持ちで目を伏せるカイル。彼の言葉は本心から出たものだ。
 だが、彼一人の考えならば、このような行動にまで出る事はなかっただろう。
 彼をそこまでさせた原因は――。
(スカーレルは……俺がどれだけコイツの心を追い込んでいたか分からせるために、あんな事を言ったのか……?)
 ソノラを愛していると言った彼。
 カイルを想う心の苦しさから自分に逃げ道を求めてきた少女を、スカーレルはその身で受け入れたと言っていた。
 だが、彼がソノラを慰めるために使ったのは甘い言葉ではなく、彼自身の体だけだ。そのような状況であれば、恋愛経験のすくない少女などスカーレルならば優しい言葉で簡単に口説き落とす事もできただろう。
 だが、あえてそれをしなかったのは。
(それは、アイツが真剣にソノラの事を好きだったから……なんだろうな)
 甘い言葉で心を揺すり手に入れた愛など、所詮一時だけの偽物にすぎない。
 スカーレルは、ソノラの想いがカイルへ向けて縛られている限り、その気持ちを正面からぶつける事はできないと言った。
 彼が思う事はただひとつ。
 それは愛しく想う少女の、その胸に抱いた脆い心を二度と傷つけないでほしいという気持ちだった。
 カイルは自分の考えの至らなかった行動が、ソノラだけでなく、彼女を愛する一人の男をも苦しめていた事にようやく気づいた。
 罪悪感、などという言葉だけでは片付けられない。
 カイルの手の甲に付着した血。
 それは彼が、湧き上がる感情のみでスカーレルを二度も殴った為についたものだった。
 それを見下ろしカイルは固く目を閉じる。そしてゆっくりと目を開き、ソノラを見上げた。
「お前にした事が、この程度の事で済まされるなんて思っちゃいねぇ。――だから、今ここで、お前の気が済むまで俺をぶん殴ってくれ」
 こうする以外、自分には償うための方法が思いつかなかった。我ながら呆れた喧嘩バカだと思いつつも、それ以外の方法が浮かばない事が情けない。
「アニキ……」
 ソノラの足がカイルの眼前まで近づく。もしかすると蹴りでも入るのかとカイルは身構えたが、ソノラはその場にちょこんとしゃがみ込んだ。
「……ばかっ」
 その声と同時に、カイルの額を彼女の指が弾く。
「いでッ!」
 思わず額を押さえてソノラを見ると、彼女は軽く溜め息をつき、肩をすくめた。
「あのねぇ……。殴って気が済むなら、あたしはとっくにアニキの事、ぶん殴ってるっての! ……でも、やっぱりどんなに傷ついてもさ、好きな人を殴るなんてできないよ。あたしには」
 心を傷つけられた事で、その仕返しとして相手の体を傷つけたとしても何も解決はしない。
 それどころか、きっと自分の心はさらに傷を広げ、その傷口にはぽっかりと虚しい空洞が口を開くだけだろう。
「それに、寝てるアニキにこっそりキスしたあたしにも問題はあったんだしね」
 そう言って、ソノラは背後のアティに振り返る。
 突然目が合い、うろたえて瞬きするアティ。そんな彼女にソノラは笑い掛けると、その場から腰をあげた。
「アニキには先生がいて、先生にはアニキがいる。二人の間にはあたしが割り込む余地なんて最初っからなかったんだよ。うん、それだけの事っ!」
 明るく笑い、ソノラはドアのほうへ歩んでいく。
「ソノラッ……」
 ドアノブに手を伸ばした時、カイルが背後から声をかけた。
「……」
 ちらりと視線を向けると、カイルは困ったような顔で自分を見つめている。
「――ソノラ、俺……」
「いいの」
 言いかけた言葉をさえぎり、ソノラは首を振る。
「あたしはアニキが好きだし、先生の事も好き。好きな人たちがくっついて嫌な気持ちになるなんておかしいでしょ?祝福してあげるよ。お幸せに、ってね?――へへっ」
 パタンとドアは閉められた。
 足早に遠ざかっていくソノラの靴音を聞きながら、カイルは一部始終を眺めていたアティを見つめる。
 彼女は目が合ったカイルに歩み寄ると、いまだしゃがみ込んだままの彼の目の前に腰を下ろした。
「カイルさん……。ソノラの気持ち、ちゃんと分かってあげてくれましたよね?」
「ああ……」
 頷くカイルの頬を、アティの少し冷たい手が優しく撫でる。先ほどまでの感情の昂ぶりのせいですっかり熱を帯びていた頬は、その感触に心地よさを覚えた。
 カイルの顔を覗き込んで微笑むアティの瞳には、わずかに寂しさが宿っている。
「もう、誰かを傷つけたりなんてしないでくださいね……?私だって、貴方が他の人とキスしたなんて事を聞いたら、それが例え冗談だったとしても……悲しくなっちゃいますから」
 彼女の言葉に、カイルは目を伏せる。
 腕をアティの背中にまわすと、優しくその身を引き寄せ、抱きしめた。
 ごめんな、とつぶやくカイルに、アティはただ静かに微笑んでいた。


「……あんな方法じゃ、やっぱりあの子を慰める事は無理だったわね……」
 自室のベッドに腰掛け、スカーレルはうつろな目で乱れたままのシーツを眺めていた。
(あの子に笑顔でいてもらう事が……アタシにとっての生きる意味なのに)
 自分がカイルと揉め事を起こした事を、ソノラは知ってしまった。彼女の存在に気づいたのはすでに争いがおさまっていた頃だったが、おそらくはそれ以前から彼女はドアの向こうに立っていたのだろう。
 ソノラを落ち着かせ、少しカイルに説教をしてみるつもりでやった事が、結果的に余計に彼女を悲しませる事になってしまうとは。
 スカーレルは自分のしでかした事を悔い、唇を噛みしめる。
 ――その時、ふとガラス棚に置いてあった彼のお気に入りのワインがその目に留まる。
 いつもは機嫌のいい時にしかそのワインは口にしないものだったが、スカーレルは舌打ちをすると、乱暴にワインを棚から取り出した。
 苛立つ彼は今すぐにでも酒に酔い、この不快な感情を心から取り除いてしまいたかったのだ。
 グラスは用意せずにワインの栓を抜くと、スカーレルはボトルの先端を口に含み、底を天井に向けて持ち上げた。逆向けられたワインは、下を向く注ぎ口から一気に彼の口内へと流れ込む。
 それを派手な喉音を立てて飲み続けた。
 味わうも何もあったものではないような飲み方で半分ほどボトルの中身を減らすと、それをテーブルに叩きつけるように置く。
「ッ……」
 カイルに殴られたせいで傷ついた口内が、ワインの渋みに酷く染みる。
 ベッドの近くに置いていた鏡に自分の姿を映すと、頬はやはり青いアザとなっていた。
「……情けない顔」
 スカーレルは鏡に映る顔を指差し、一人苦笑する。
「これじゃあせっかくの美人さんが台無しだわぁ……」
 力なく笑うと、彼は壁に背をもたれかけて床に座り込み、コンと頭をぶつけた。
 ふとベッドに視線を向けると、乱れたシーツには、さきほどの情事の跡がわずかに姿を残していた。
 水を落としたかのような、小さな濡れた跡。
 ソノラの愛液だ。
「…………」
 それを見つめていたスカーレルの頬がわずかに火照る。そっと手を伸ばすと、その濡れた部分を指で静かに撫でた。
 ソノラはもう部屋に戻っているのだろうか。スカーレルは向かい合わせにある彼女の部屋に、ドア越しに目線を向ける。
 ドアを見つめながら目を細めると、彼はシーツに顔をうずめた。
 ――残っているのは、自分の香水の匂いと彼女の愛液だけ。
 彼女の心のすき間をひと時のあいだ埋めたのは、内側にひた隠しにしていた自分の一方的な愛情だ。
 その愛の矛先を向ける相手がここにいない今のベッドは、彼の一方的に愛した痕跡だけが姿を残す、ただの抜け殻だった。
「……ソノラ」
 ふいにスカーレルの視界が揺れる。それが涙なのだと気づいた時には、すでに彼の口から嗚咽が漏れていた。
「ッ……、ふふ、馬鹿ねぇ。いい歳して何泣いてんだか」

 暗殺の為の訓練を日夜受け、自分と同様に連れてこられた同年代の少年少女が、その過酷さに隣りで息絶えていく様を見続けていた地獄のような少年時代。
 その訓練を乗り越え、初めて依頼で人を殺した時、すでに彼の感情は氷ついていた。
 涙など、その時にはとっくに心の底から枯れ果てていた。
 猛毒の刃で斬りつけられ、白目を剥いて身を痙攣させる男を見下ろし、スカーレルはただ無言で相手の命の灯火が消える瞬間を見届けていた。
 最後に涙を流したのは一体いつだったか。それすらも記憶にないほどの事だった。
「なのに、どうして今頃になって……あんな小娘一人にここまで必死になっちゃうんだろ」
 スカーレルの脳裏に、ソノラの姿がぼんやりと浮かぶ。
 それは笑顔を浮かべ、時に頬を膨らませてむくれている。だが今の彼の中でもっとも鮮明に浮かび上がる光景は――彼女の泣く姿だった。
「…………」
 ぎゅ、とシーツを掴む。
 ――ソノラに会いたい。
 会ったとしても何を話せばいいのか分からないが、それはその時に考えればいい事だ。
 スカーレルは立ち上がると、ドアノブに近づいていく。
「――ねぇ、スカーレル。まだ……起きてる?」
 その時、ドアの向こうから小さな声が届いた。
 それは――ソノラの声だ。
 スカーレルは驚いたように目を大きく開くが、すぐに平静を装い、穏やかな声で彼女に応える。
「……ええ、起きてるわよ?」

 ドア越しに聞こえるスカーレルの声は、いつもと変わらず優しかった。
 またこうやってスカーレルの所へとおもむく自分を、彼はわずらわしいとは思っていないのだろうか。
 好きだと言われ、彼と体を重ねていたさなか。
 カイルの声を聞き、身勝手に突然行為を拒んだ自分をまだ本当に好きだと思ってくれているのだろうか。
 ドアを開ける事を何となくためらい、ドアを挟んだまま声をかける。
「ごめん……。スカーレル、あの時すぐに部屋を出ていっちゃったから」
「……ちょっとね、疲れてたから早く休みたかったの」
 明らかに見え透いた嘘だった。それならば、いまだに自分が起きている理由の説明がつかない。
 ソノラの声に動揺しただけでこんなにも嘘が下手になるのかと、スカーレルは苦笑する。
「スカーレル……ほっぺ、怪我してたね」
「ああ、やっぱ目立っちゃう?まいったわねぇ。明日はもっと濃い目にお化粧しなくっちゃ」
「――アニキに殴られたんでしょ?あたしのせいで……」
 冗談めかして答えるスカーレルに対し、ソノラは沈んだ声色で尋ねる。なぜ彼がカイルに殴られたのか。その理由は聞かずとも何となく察す事はでき、あえて尋ねはしない。
 スカーレルはその問いに、ドアの向こうで目を伏せ、静かに微笑む。彼女の問いには何も答えなかった。
「今日一日……スカーレルに迷惑かけっぱなしだったよね。あたしが……、いつまでもアニキの事で吹っ切れる事ができなかったせいで……」
 自分の事をここまで想ってくれている人に、都合のいい時だけ体を求め、気分次第で突き放す自分が酷く許せなかった。
 カイルへの辛い気持ちを全て打ち明け、スカーレルの胸で泣き続けていたソノラ。自分が何よりも不幸な存在だと思い込み、自分を優しく慰めてくれる彼がどんな気持ちでいるかなど、考えもしていなかった。
 愛する少女が胸の中で他の男の名前を呼ぶ事が、どれだけ辛い事か。
 彼女の気持ちを理解し、それでいて彼女を元気づけようとしてくれたスカーレルが、どれだけ自分の想いを押さえ込んでいたか。
 スカーレルは、もしかすると自分よりもずっと辛い思いをしていたのかもしれない。
 吐き出す事のできない想いは、きっと彼を苦しめていた事だろう。
「……ごめんねっ……スカーレル……」
 ドアに額を押し当て、ソノラは目を閉じた。
 目元からは涙が溢れ、ぽたぽたと床にしたたり落ちる。口から漏れる嗚咽を抑えながら、ソノラは床へとひざをついた。
「そんな怪我して……、本当はあたしよりもスカーレルのほうがずっと、心も体も傷ついてたんでしょ!? スカーレルはあたしの事、本当に大切に想ってくれてたのに、あたしはそれに甘えるだけで、その気持ちを理解しようだなんて一度も考えなかった!」
 こんな身勝手な女を好きでいてくれる事が、酷く申し訳なかった。むくわれるとも限らない気持ちを胸に、自分を包み込んでくれる彼が、気の毒だとさえ思った。
「キライになってよ、あたしの事なんか!スカーレルみたいな優しい人が、あたしみたいな奴なんかを好きになっちゃ……ダメだよっ……」
 耐え切れず、ソノラの口からすすり泣く声が漏れる。
 ――カイルが他の人を好きでいた事は辛かった。それはあくまで自分自身の気持ちが一方的に彼に向けられていた事を知った故の気持ちだった。
 だが、今ソノラの胸を締め付けている辛い気持ちは、そういうものではない。
 自分の事だけを考え、常に自己防衛を続けていた彼女が初めて気づいた、人の痛みを知る気持ち。
 それがソノラの心を締め付け、身勝手な過去の自分を蔑む後悔の涙を生み出していた。

 ドアの向こうから絶え間なく聞こえるソノラの嗚咽。
 スカーレルはベッドに腰掛け、背中越しにそれを耳にしながら悲しさに目を細める。
 ――またあの子を泣かせてしまった。
 スカーレルの脳裏に、遠い日の光景が浮かび上がる。
 海賊船の甲板。小さな少女が泣く姿を隣りで見つめ、そのブロンドのくせっ毛を優しく撫でていた一夜の記憶。
 あの日、心に誓った事なのに。
「……泣かないで、ソノラ」
「……うぅ……っ」
 止まる事のないソノラのすすり泣く声を聞きながら、スカーレルは言葉を続ける。
「……覚えてるかしら?アタシとソノラが、初めておしゃべりした夜の事」
 その言葉に、ソノラの声が止まる。
 スカーレルは薄暗い天井を仰ぐと、過ぎ去った過去の光景を胸に思い描きながら目を閉じた。
「スカーレルが……初めてあたしと話した日?」
「もしかして覚えてない?」
 苦笑まじりに問うスカーレルに、ソノラは姿が見えないにも関わらず慌てて首を横に振る。
「お、覚えてるよっ。……だって、あの時からじゃない。あたしとスカーレルが仲良くなったのはさ……」
「……ええ、そうね」


 ――月明かりに照らされた甲板に、小さな影が伸びていた。
 その影の主である少女の目の前に広がるのは、どこまでも広がる大海原のみ。
 その奥底には、今も彼女の両親が沈んでいるのだろう。
 両親を失った悲しみを振り切ったつもりでいたソノラは、その夜皮肉にも生前の彼らの夢を見てしまった。
「……っ」
 溢れ出した涙が頬を濡らす。
 寂しい夜はカイルの部屋へ足を運んでいたが、そろそろそれも卒業しなくてはいけないだろう。
 いつまでもべそをかく子供の隣りで添い寝してくれるほど、カイルも暇ではない。昼間の労働で疲れている彼を起こしにいくのはさすがに気が引けた。
 ……冷たい潮風が頬を撫でる。身震いしたソノラは袖で目をこすると、寒さから身を守るように自身の体を抱きしめた。
 その時、背後でコツ、と足音が鳴る。
(――アニキ?)
 もしかして。ソノラは期待を胸に抱き、慌てて振り返る。
 そこには――。
「――どうしたの?そんな所で……」
「あ……っ」
 そこに立っていたのは、客人としてこの船に乗るスカーレルの姿だった。
 意外な人物を目の前に、ソノラはうろたえる。
 ……ソノラは彼が苦手だった。
 無口な彼はどことなく影があり、加えて女性のような奇抜な格好。豪快で陽気な船員たちとは違い、ソノラにしてみればそんな彼はどことなく怖い印象を受け、近寄りがたい雰囲気を放っていた。
 初めて彼に話しかけられ、ソノラは何と答えればいいのか分からず、視線を避けるようにうつむいた。
 その様子にスカーレルは寂しげに目を細め、隣りに腰を下ろす。
「……泣いてたの?」
 ソノラに視線は向けず、海を見つめたままつぶやくようにスカーレルは言う。
 ソノラは横目で彼を見ると、こくりと頷いた。
「あたしのパパとママはね……、海の事故で死んじゃったの。あたしを置いて、二人で……。その事思い出しちゃって……」
 ひざに顔をうずめ、ソノラは答える。
 スカーレルは視界の片隅で、彼女の肩が小さく震えていることに気づいた。
「……これ」
 ふいにソノラの首元に温かい物が巻かれる。それはスカーレルが普段身につけている黒いショールだった。彼のぬくもりが残るそれは、冷えたソノラの身を温める。
 驚いたように見上げるソノラに、スカーレルは小首をかしげて見下ろした。
「寒いわけじゃなかったの?」
「う、ううん。ありがと……」
 首を振ると、ソノラはショールをぐるぐると巻きつけ、体を丸める。まるでヘビに絡まれたようなその姿に、スカーレルは思わず笑みをこぼした。
 その笑顔を目にし、ソノラは意外だというように目を丸くする。
「あっ……。スカーレルが笑うところ、初めて見た」
「えっ」
 そう言われると、スカーレルはふいに頬を赤らめて表情を戻す。ソノラは慌てて彼に飛びつくと、元に戻してしまった表情を直すように彼の頬を両端から引っ張った。
「いたたたっ!ちょっと、やめてっ!……もう、ソノラってば」
 苦笑するスカーレルを見つめながら、ソノラはそんな彼に笑い掛けた。
 しばらくお互いに笑い合ったあと、スカーレルはふと目を伏せる。
「……アタシもね、両親がいないの。ずっと昔に死んじゃって、ね」
「スカーレルも?」
「そう。だから……貴女と同じで、今はこの船の人達がアタシの家族。……アタシね、ここの船長さんに頼んで、船員にしてもらう事にしたから」
「それじゃあ、あたし達の仲間に?」
 驚いたようにソノラは彼の顔を覗き込む。突然顔を近づけられスカーレルは思わず身を引くが、少し照れたように微笑むと、軽く頷いた。
 ソノラはそんな彼をしばらくの間見つめると、やがて目を吊り上げ、さらに身をスカーレルに寄せた。
「ソ、ソノラ?」
「それなら。もっと笑顔でいなきゃ、笑わなきゃダメだよ?この船はね、みんなが『おひさま』でいなきゃダメなの」
「……おひさま?」
 うん、とソノラは力強く頷く。
「あたし達海賊は、晴れた空の下で帆を張って、夢を追いかけて前に進まなきゃいけない。おひさまが明るいほど目の前の景色は澄んでて、目的地も見つけやすいでしょ?みんなの元気だってそれと同じ。おひさまみたいに明るければ明るいほど、みんなのやる気だって大きくなるの。だから――スカーレルももっと明るくなって、みんなと笑い合おうよ」
「アタシが……彼らと」
「――ホント言うとね、あたし、今までスカーレルの事が怖くて苦手だったの。……でも、今日スカーレルが話し掛けてきてくれて、気持ちも変わったんだ」
 スカーレルは彼女の言葉を黙って聞き続ける。ソノラはスカーレルの目を正面からまっすぐに見つめ、その手を力強く握り締めた。
「あたし、スカーレルともっと仲良くなりたい。いっぱい色んな事お話して、お互いの事たくさん知りたい。だから、悩みがあるのならあたしに話して?それで解決できるわけじゃなくても、少しでも気持ちが楽になれるならそのほうがいいよ」
「…………」
 ね?と微笑むソノラをスカーレルは見つめていた。
 自分の辛い気持ちを抑え、明るく振る舞う目の前の少女の笑顔は優しさに満ちていた。
 スカーレルはようやく頷くと、ソノラの髪にそっと手を伸ばす。
「――貴女がそう言うのなら、明日からそうするわ。……だからソノラも、もう泣かないで」
「え……」
 ソノラの目尻には、まだわずかに涙が滲んでいた。
 気を許したスカーレルに陽気に話し掛ける事で、彼女は先ほどまでの悲しみを無理に紛らわそうとしていたのだ。
 スカーレルはそれに気づいていた。
「貴女が笑顔でいるなら、アタシも貴女と一緒に笑っていられるわ。だから、もうそんな顔しないで。人のいない所で、独り泣き続けるのはやめにしましょう?――やめるのは、明日からでいいから」
 スカーレルは優しく微笑む。
 ……彼にはすべてお見通しだった。少女が悲しみを耐えて、いつも明るく振る舞おうと努力していた事を。
 心の奥底に隠していた暗い闇を抑えきれず、独り影で泣いていた事を。
「……ぁ……っ」
 ソノラの目から涙がこぼれ落ちる。
 髪を撫でるスカーレルの手は冷たかったが、なぜか心地よく思えた。
「今夜は思いっきり泣きなさいな。ソノラはアタシを元気付けてくれた。……だから、明日からはアタシが貴女を元気にしてあげる。貴女の笑顔を見るために、アタシも頑張るから――ね?」
 ソノラの笑顔をそばで見続けていたい。
 その為にスカーレルは明るく振る舞える努力をした。
 いつも二人、一緒に笑っていられるように――……。


「――でも、結局泣かせちゃったわね」
 スカーレルは苦笑しながら、ひざに乗せたクッションをもてあそぶ。
 ごめんね、と彼がつぶやくと、ソノラは鼻をすすり、震える声をあげた。
「スカーレルは悪くないよっ。あたしの事をこんなに心配して――」
「心配だけじゃないわよ。貴女に対して抱いてる気持ちは」
「ッ……」
 その言葉に、ソノラは顔を赤らめる。
 さきほど彼の部屋で告げられた言葉がソノラの頭をよぎった。
 ――ソノラを好きだという気持ち。
 あらためて彼に言われると、恥ずかしくもあり、困ってしまう。
「ソノラは、まだカイルの事が諦めきれない?」
 少し沈んだ声で、スカーレルは尋ねる。
 その男の名前に、ソノラの鼓動が高鳴った。
 表向きは吹っ切れたつもりだったが、やはり長年想い続けたその気持ちはそうそう簡単に切り離せるものではなかった。
 二人を祝福するとは言ったが、しばらくの間は二人が一緒にいる姿を見ていたくはないというのが彼女の本音なのだ。
「分からない……。でも、いつかは諦めなくちゃいけないって事は分かってるんだよ?でもっ……」
 そう言って唇を噛む。
 スカーレルは彼女の震える声を聞きながら、拳を握り締めた。
 ――今まで心の奥にしまい込んでいた言葉。それはもしかすると、永遠に口にする事はないかもしれないと思っていた。
 都合のいい言葉。安っぽい言葉。
 それはスカーレルが口にするには、あまりにも単純なものだった。
 だが、今は何故かその言葉しか思いつかない。
 スカーレルは自分の唇が震えている事に気づき、大きく息を吐く。
 目線をドアへ向けると、彼はゆっくりと口を開いた。
「――……アタシじゃ、駄目?」
「……え?」
 スカーレルは目を伏せると、高鳴る鼓動を抑え、言葉を続ける。
「アタシはソノラが好き。愛してるの。……アタシじゃカイルの代わりにはなれない?」
 自分でも馬鹿馬鹿しいほどに工夫のないセリフだと思った。
 安っぽい恋愛小説のワンシーンのような、型にはまった言葉。
 ……それでも、今の気持ちを伝えるにはこの言葉しか見つからなかったのだ。
 しばらくドア越しに二人の沈黙が続く。
 返答に困っているのだろう。スカーレルはそう察し、冗談ぽく笑みを浮かべると、前言を撤回しようと口を開いた。
「スカーレル」
 その時ソノラが先に口を開く。
 それは小さな声だったが、確実に彼の耳に届く強い声だった。
「あたし……一応はアニキの事、吹っ切れたつもりなんだ。でも、まだアニキへの想いは引きずったままでいるかもしれない」
「…………」
 スカーレルは無言で耳を傾ける。
 ソノラは一呼吸つくと、言葉を続けた。
「スカーレルがあたしの中で、アニキ以上の存在になる保証なんてないかもしれないよ?それでも――」

 その時、突然ソノラの眼前のドアが開く。
「――!」
 突然の事に驚いたソノラを、ドアを開けたスカーレルは見下ろしていた。
 その口元はアザを残しながらも優しく微笑んでいる。彼の瞳は込み上げる感情を押さえ込むように、そこに宿る光を揺れさせていた。
 それが彼の涙なのだと分かった時、ソノラの体はスカーレルの両腕に固く抱きしめられていた。
「ス、スカーレルッ!?」
 頬を赤らめ、ソノラは彼の胸にうずまった自身の顔を上向ける。
「ごめんねソノラ。アタシ、何だか我慢できなくてっ……」
 そう言って、スカーレルはソノラをまっすぐな眼差しで見下ろした。
 いつもの彼からは想像できないような、儚げな目。
 ソノラは彼の瞳を食い入るように見つめる。
「どうして……スカーレルはあたしなんかの事を、そこまで好きでいてくれるの……?」
「――愚問だわねぇ」
 その問いに、スカーレルは優しげに目を細めた。
「……貴女が、闇に覆われていたアタシの心を照らしてくれたからよ」
 ソノラの体を抱きしめる腕が、少しだけ緩む。
「貴女がいたから、アタシは今、こうやって自然に明るい自分でいられるの。心を閉ざしていたアタシに、貴女はその笑顔で忘れかけていた『笑う』っていう気持ちを思い出させてくれたのよ」
 ソノラがあの船に乗っていなければ、もしかすると自分はこの船の客人のまま、どこかの港で降りていたかもしれない。
 今の自分がここにいるのは、すべて彼女のおかげだった。
 誰よりも愛しい少女。たとえ独占する事が無理だとしても、スカーレルはその笑顔を見守っていたかった。
「アタシのものになってほしいなんて無理は言わない。……でも、辛い事があった時はすぐに頼ってきてほしい。アタシはソノラの心の拠り所のような存在になりたいから」
 彼の色香を帯びた声が耳元でささやく。
 それはいつもなら冗談だろうと笑うものだったが、彼の声は真剣そのものだ。慣れない緊張に声は強張り、熱い吐息がソノラの耳をくすぐる。
 ソノラは頬を赤らめ、スカーレルの袖を握り締めた。
 ――かすかに、彼女の口が動く。
「……何て言ったの?」
 聞き取れなかったソノラの声に、スカーレルは顔を近づける。
 ソノラは上目遣いに彼を見ると、もう一度口を開いた。
「――時間、かかるかもしれないよ?それでも……スカーレルはあたしの隣りで、その時を待っててくれる?」
「ソノラ……」
 待つというのは――。
「アタシを好きになる努力をしてくれるって……そういう事?」
 スカーレルの問いに、ソノラは顔を紅潮し、うつむいてしまう。
「だ、だから、ホントに心から好きになれるかどうか分かんないんだよ!?もしかしたら期待させたまま、その日が来ないかもしれないんだよ!?スカーレルはっ……それでもいいの?」
 慌てふためくソノラを見下ろしながら、スカーレルは思わず笑い出す。
 いつわりのない彼女の言葉は、いつも通りのソノラの姿だった。相手の言葉に合わせてその場をしのぐような事は、彼女はしない。いや、できないと言ったほうが正しいだろうか。
 そんな飾らない彼女だから、スカーレルは想いを寄せたのだ。
 嘘偽りで塗り固められた世界で生きてきたからこそ、彼女のようなまっすぐな存在が愛おしい。
 スカーレルはソノラの額の髪をあげると、そこに軽く口付けた。
 ソノラの肩がぴくりと動き、頬を赤く染めたまま動きを止める様子を笑顔で見つめながら、スカーレルは彼女の小柄な体をもう一度抱きしめた。
「無理しなくてもいいのよ。アタシは貴女がそう思ってくれただけで、充分嬉しいからね」
「う……」
 ようやく体を解放すると、スカーレルは手を差し出し、部屋の中へとソノラを招く。
「それじゃあ始まるか始まらないか分からない二人の記念日に、今夜はアタシがとっておきのワインをご馳走してあげるわ」


 ベッドに広がる乱れたシーツを手早く直し、スカーレルは言う。
 ソノラはそれを目にし、先ほどこの部屋で彼に抱かれた事を思い出した。再び顔を赤らめるソノラに気づき、スカーレルは振り返る。
「――ソノラ」
「なっ……何っ?」
 慌てて身構える彼女に微笑むと、スカーレルは首を横に振った。
「中断しちゃったさっきの続きは、貴女がアタシを本当に好きになってくれた時に――、その時にしましょうね」
 愛のないセックスなんて、やっぱり寂しいだけだもの。そう言うスカーレルに、ソノラは静かに笑みを浮かべ、頷いた。
「今夜はめいっぱいお喋りしましょう?アタシ達が初めて話したあの時よりも、ずっとたくさん――ね?」
 鮮やかなワインの入ったボトルを取り出し、おそろいのグラスをふたつ、ソノラに手渡す。
 それは二人が一緒に飲む時に必ず使うものだった。
「スカーレル!あたしが酔っ払っちゃた時は、介抱よろしくねっ」
「いいわよ。でも、悪酔いして吐くのだけは勘弁してよね?この前なんてそりゃもう……」
「あーっ!その話題はストーップ!!」
 必死に口を押さえようとするソノラを、スカーレルは笑いながらかわす。負けじと追いかけるソノラは彼に抱きつき、彼の髪の毛を引っ張っていた。
 ――本当は恋人などという肩書きなど、必要ないのかもしれない。
 
 お互いの存在こそが――それだけで自分達にとって生きる力となるのだから。


おわり

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