二本の一方通行路 中編その4



 自分がとても汚れた存在に思えた。
 汗ばんだ肌。男に抱かれた時のままの体。香水などをつける事のない自分から香る、その匂い。
 おそらく風呂から出てきたばかりなのだろうアティの肌は、艶やかに潤い、石鹸の心地よい香りがソノラの鼻をくすぐる。
 男という存在に同じように抱かれているはずなのに、何故彼女と自分はここまで違うのか。
 ソノラの中に激しい羞恥心が込み上げる。セックスの時の肉体的な恥ずかしさとは比べものにならないほどの、おぞましいほどの精神的な負の感情。
 今のソノラの体を包んでいるのは彼女と正反対の、情事後の匂い。それをアティに悟られる事を恐れ、ソノラは慌てて掴んでいた彼女の袖を放し、その距離をおいた。
「ソノラ?」
 一連のソノラの行動の意味が分からず、アティは涙を流し続ける彼女に再び手を伸ばす。
「さわんないでっ……」
「っ!」
 突然ソノラの口からこぼれた攻撃的な言葉。アティの伸ばされた手の先がピクリと動き、ソノラの手前で止まった。
「あ……」
 自分でも無意識に口にしてしまった言葉に、ソノラはわずかに後悔の声を漏らす。
 アティの事を憎めるわけがないのに。自分を受け入れてくれた彼女を嫌える権利など、そんな身勝手な権利などあるはずがないのに。
 だがこれ以上アティに干渉され、自分の醜い部分に気づかれたくはなかった。
「――――……」
 ソノラが黙り込んだ事により、船長室のドア向こうから聞こえる声はより鮮明なものとなっていた。
 怒りを含んだ男の声。アティはそれが何かをすぐに理解し、ソノラを見つめた。
 ソノラはうつむき、耳をドアへと傾ける。
 おそらくしばらくは終わりそうにないだろう。
「……もう、どうすればいいのか分かんないよ。今さらあたしが行ったところで、この状況が簡単に片付くと思う?もしかしたら、余計に話がこじれちゃうかもしれない……」
 もうどうにもならない。力のない声でつぶやくソノラ。
 アティはそんな彼女を見下ろしたまま、困ったように目を伏せる。
「でも……駄目ですよ。ソノラ。これは貴女の問題なんです。だから貴女が彼らのところに行かないと」
「行けない……嫌なのっ」
 目を閉じ、頑なに拒むソノラ。
 行かなければいけないのは分かっている。しかし、そうする事で新たに自分が傷つく事になったら。
 ソノラは全てを恐れていた。彼らの争いに飛び込む事が怖い。仮にそこに行ったとしても、何をすればいいのかもわからない。
 頭を抱え、ソノラは身を強張らせる。
 今は自分を心配してくれているアティの存在さえがわずらわしい。彼女の優しい瞳が、まるで自分を哀れんでいるかのように見える。
 ……アティは、自分とは違う。
 強くて、優しくて、美しい女。自分が何年かけても射止められなかったカイルの心を、ほんの少しの時間で手に入れてしまっていた人。
 そんな彼女の目には、ソノラは一体どういう存在として映し出されているのか。
 想像するのが恐ろしかった。
「あたし……なんでアニキの事なんか好きになっちゃったんだろ。こんな苦しい思いするくらいなら、好きになんかなるんじゃなかった。……どうせ実らない恋だったのに」
 うつむいたまま、つぶやくように声を漏らす。
「そっ、そんな事言わないで、ソノラ――」
 ソノラを少しでも慰めようと思ったのか、アティはとっさに声をかける。
 ――だがその言葉は、ソノラにとっては屈辱以外の何者でもなかった。
 ソノラは唇を噛みしめ、アティを見上げる。
「……人事だと思って!そもそもあたしの気持ちを壊したのは先生じゃない!先生がっ……あたしからアニキを奪ったからっ!」
「っ……!」
 気の昂ぶりがソノラの感情を突き動かす。
 アティを一人の人間として好きでいたいがため、心の奥底に隠していた言葉。
 ソノラがアティに対して抱いていた黒い感情は、思わず口にしたアティの言葉によってその姿を露出していった。
 もう自分でも何を言っているのかが分からない。ソノラは感情のおもむくまま、言葉を吐き続ける。
「それに先生だって、本当はあたしのこと邪魔だと思ってるんでしょ!?あたしがアニキにキスした事を、恋人の先生がなんとも思ってないワケないもんね!?」
「ソノラ、もうやめてっ」
 息を荒げるソノラを、アティは慌てて制する。
 彼女の柔らかな手がソノラの肩を掴むが、ソノラはそれをも手荒く振り払った。
「うるさいっ!そうやっていい人ぶるの、いい加減にしてよね!」
「な……」
 その言葉に、アティの瞳が揺れる。
「あたしの事を心配してるふりして、本当はいなくなっちゃえばいいとか思ってるんでしょ!? あたしのせいで皆めちゃくちゃになっちゃったんだもん。素直に出て行けって言えばいいじゃない!」
「――――……ッ!!」
 アティの頬が朱に染まる。
 それと同時に振り下ろされる彼女の手。
 
 乾いた音が、静かな廊下に響いた。

「……あ……っ」
 頬が痛む。目の前のアティは、怒りをあらわに手をかざしていた。
 その口からはわずかに乱れた息が漏れ、肩は震えている。
 今までに一度も見たことのないアティの表情に、ソノラは身を強張らせた。
「……ソノラッ……」
 ソノラの頬を叩いた手を押さえ、アティは口を開く。
「私がソノラの事を邪魔だなんて、一度でも口にしましたか」
 くぐもった声。それが怒りを含んだものであるという事はすぐに見て取れた。
「言ってないけど、でもきっと先生は心の中であたしの事っ……」
「根拠のないことを言わないでください!」
 その声にビクリと肩が震える。
 だが怒りの声とは裏腹に、アティの目じりにはかすかに光を帯びていた。
 それが涙なのだと分かった時、アティの腕が突然ソノラの体を抱きすくめた。
「せ、先生っ……?」
 うろたえるソノラの体を解放し、アティは彼女を見据える。
「邪魔なもんですか。そもそも私がこの船にお世話になる決意をしたのは、貴女がこの船に乗っていたからなんですからね……」
「え?」
「知り合って間もない、男性ばかりの海賊船にお世話になるなんて、よほどの勇気がなければ決断できない事でしょう?カイルさん達に案内されながら悩み続けていた矢先に貴女を見つけて、凄く嬉しかったんですから――」
 そう言うと、アティの顔はいつも通りの穏やかな笑顔へと戻っていた。
「同じ女の子がいるっていうのはやっぱり心強い事ですし、それに何より、貴女のような明るくて楽しい子とお話ができるっていう事は、私にとっても元気の源になるものだったんですよ」
 アティの手が、叩いた為に赤らんでしまったソノラの頬を優しく撫でる。申し訳なさそうに手を放すと、頭を下げた。
「叩いたりしてごめんなさい。……でも、私の貴女に対する気持ちを誤解してほしくなかったの。私にとってソノラは大切な仲間で、友人で、妹のような存在なんですから」
 彼女のその笑顔に偽りはないのだろう。涙もろい彼女が見せる笑顔は、自分を強がってみせる事はあっても他人を欺くような事は絶対にしない。
 ……また身勝手な事で人に辛い思いをさせてしまった。ソノラは溢れ出した涙を慌てて拭うと、首を横に何度も振ってみせた。
「ううん、悪いのはあたしのほうだよ……。自分の殻に閉じこもってて、人の気持ちに気づく事ができなかったあたしが……」
 ふとその時、ソノラの脳裏にスカーレルの姿が浮かぶ。
 ソノラの事をいつも気にかけ、慰めて元気付けてくれていた彼。
 彼はいまだに船長室にいるのだ。
 不安げにドアに視線を向けた彼女の心を察し、アティは後押しするようにソノラの肩を軽く押した。
「――行ってあげましょう?貴女がそこに入る事で、きっと二人の争いは止まるはずです。だって、あれだけ必死に争えるほど、二人は貴女の事を大切に思ってるっていう事なんですから……ね?」


「……強引に奪ったって言っても、レイプしたワケじゃないからね。一応は合意の上での事だったし」
 壁際に座り込みながら、スカーレルは殴られた頬を押さえている。口内に溜まった血を飲み込むのをためらい、唾液ごと床へと吐き出した。
 ビチャリと音を立て、粘り気のある薄赤い液が床に散る。
 それを眉をひそめて見下ろすカイル。
「……フフッ、ハハハッ……」
 顎を伝った赤い唾液を拭い、スカーレルは楽しげに声を漏らす。
「好きな子を体だけでも無理矢理自分のモノにしようとしたアタシと、自分に想いを寄せる女に無意識で手を出して、その心を傷つけたアンタ。……男として最低なのはどっちなのかしらね?」
「…………」
 カイルは静かに目を閉じ、黙り込む。しばらくして小さく息を吐き出すと、まぶたをゆっくりと開いた。
「自覚がある分お前のほうがタチが悪いと考えられれば、自覚がない分俺のほうがタチが悪いとも考えられる。どっちとも言えねぇな」
「そうね……どっちもどっち。その通りだわ。……でも、結果的にあの子の『心』を傷つける事がなかっただけ、アタシのほうがマシだって思いたい部分もあるのよね」
 カイルは夕食事のソノラの様子を思い浮かべた。
 さも楽しげにキスの事を話すかたわらで、いつになく無言でうつむいていた少女。その異変になぜ自分は気づいてやる事ができなかったのか。
 酒が入っていた、などという言い訳はできるはずもない。
 答えは簡単だった。
(……俺が、ちっともアイツの気持ちを考えてやっていなかったからか)
 アティにソノラへ謝る事をうながされるまで、自分の行いに非がある事に気づけなかった。
 あまりにも鈍感な自分が情けない。
『ここまで無神経な男だったとは正直思わなかったわ』
 あの時スカーレルが口にした言葉。
 ソノラに想いを寄せている彼は、例えその行動が強引なものであったとしても、ソノラを気遣う気持ちは確かなものであった。
 アタシのほうがマシだ。――その言葉をカイルは否定できなかった。
「カイル……アタシはね」
 肩ひざを立て、壁にもたれかかるように座っているスカーレル。その視線は上を向いていたが、目の前に立つカイルに向けられているものではなかった。
 ぼんやりと天井を見つめている。
 目を細め、自嘲するかのように力なく笑うと、静かに目を伏せた。
「アタシは……ソノラの事が好きよ。あんな子供に、って思うかもしれないけど。――でも、愛してるの。心の底から……ね」
 くしゃりと顔を覆う前髪を手ですくい、それを握り締める。
 初めて目にしたスカーレルの右目は閉ざされていた。それがあえて閉ざしているものなのか、開く事ができないものなのかは分からない。
 左の常磐色の瞳はただ足元を見つめ、どこか寂しさを含むように瞬きをする。
「でもアタシじゃあの子を幸せにはできないのよ。あの子が貴方の存在に縛られている限り、アタシはあと一歩のところでいつも踏みとどまってしまう。……本気で告白して、拒まれるのが怖いんでしょうね」
「スカーレル……」
「貴方にソノラを幸せにしてほしいなんて言わないわ。貴方にはセンセがいるもの。……だからせめて、あの子に無駄な期待を抱かせるような事はしないであげて。例えそれが無意識の行為だったとしても、それがあの子の心を傷つける事に変わりはないから」
 あの子の悲しんでる姿は見たくないのよ、とスカーレルは微笑む。
「…………」 
 カイルは目を閉ざすと、静かに息を吐いた。
 情けなかった。一方的に怒っていたのは本当は自分だけだったのではないのかと。自分がアティを愛しているのと同じように、スカーレルはソノラを愛している。ただそれだけの事だった。
 悪かったよ、とカイルがつぶやくと、スカーレルは「いいわよ」と苦笑する。
「――さて、と。アタシもそろそろ部屋に戻ろうかしらね。ほら、あなたも戻りなさいよ」
 腰を持ち上げ、ズボンのホコリを叩きながらスカーレルが言う。
「おいおい、俺の部屋はここだぞ?」
 カイルの言葉にスカーレルは首を振ると、視線をそっとドアの方へと向けた。
「……アタシは、こっちの観客さん達に言ったの」
 ぐるりとドアノブを回すと、そこにはドアに張り付くように突っ立っているソノラの姿があった。
 突然の事に顔を赤らめ、口を開いたまま彼女は立ち尽くしている。
 スカーレルは、その姿を見ながらアザの浮かんだ口元に笑みを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。
「心配してくれたの?カイルを?それともアタシを?」
「え、えっと、それは……」
 返答に困るソノラに、スカーレルは「ケンカの観賞代は明日のご飯で負けてあげる」と微笑んでいた。


つづく

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