レックス×アズリア 2



「ただいま、アズリア!」
「…ああ」
再会した時の何時もの挨拶。愛の言葉にも似ている約束の言葉。これも最後になるのか。
そう考えると出迎える声も自然と暗くなった。
まるで大型犬が勢い良く尻尾を左右に振り乱し、その体全体で愛を伝えるかのように真っ直ぐに愛情をぶつけてくる相手の目が見れない。
「おかえりなさい」という言葉が出てこない。
だってこれから自分がしようとしていることは、その愛情や信頼を裏切る行為なのだ。
相手の気持ちを無視して自分の都合だけで全てを終わらせようとしている。
最低だ。反吐が出る。
そんなことを思いながらアズリアは自嘲気味に笑いながら言葉を吐き出す。
「お前に、話したいことがあるんだ…」
「俺もね、君に言いたいことがあるんだ。でも先に君の話が聞きたい」
自分に向けられる優しい笑顔。大好きなその表情を崩すようなことを今から自分は口にするのだ。
胸を締め付ける痛みを堪えてアズリアはそっと手を差し出す。
その手に握られているのは側にいようと約束を交わした指輪。
それを手放す。その意味は、口にしなくとも分かる。
「…お前に、これを返す」
俯いたまま声を絞り出す。気を抜けば今にも手が震えだしそうになる。怖くて相手の顔が見れない。
凍る笑顔を見てしまったら、きっと自分の心は壊れてしまう。
「…どういうこと?」
返ってきた声はほんの少しだけ震えていたようだった。
その声音に心が揺れそうになるが無理矢理その苦しみを押し殺す。
「そのままの意味でとってくれればいい。お前とはもう会わない。二度とその顔を私の前に見せるな。目障りだ」
自分の言葉に心が悲鳴を上げそうになった。
本当の心が叫びを上げる。
苦しい。言葉を吐くのがこんなに痛くて哀しいことだとは今まで思いもしなかった。
「…理由、言ってくれないと納得できないよ」
言葉は冷静でも声に隠し切れない感情が覗いた。
低く揺れる声は初めて聞くもの。
まるで別の人間が発したかのようだ。
――誰でもいいから今すぐ自分の喉を潰して欲しい。続きの言葉を吐けないように。
「飽きたんだよ、お前に。確かに最初は本気で好きだったさ。けどな、滅多に会えない上に気は利かない。寂しい時や泣きたい時に側にいてくれない。そんな男に満足できると思うか?今な、私には好きな奴がいる。レヴィノス家に並ぶ名門の軍人の家系の人間でな、陸戦隊で隊長をしている。お前と違って会いたいと思った時にすぐに会いに来てくれるし、自分の選んだ道から逃げ出したりしない男らしい男だ。同じ軍人として話もあうしな。私はそいつと付き合いたいと思っている。結婚だって考えてるんだ。だからお前が邪魔なんだよ」
「…っ!」
残酷な言葉を嘘を吐いた。言ってはならない事を言ってしまった。
触れてはならない二人の不安。それを全て口にした。
その言葉の鋭さに泣きたくなった。泣きたいのは自分じゃなくて相手の方なのに。
だから顔を上げられなかった。
返ってくる言葉も、相手の表情も、そのどちらもが怖かった。
「…嘘、だね」
「嘘じゃない…!」
思いもかけない言葉に声が荒れた。
どうして。だって完璧だったはずだ。なのにどうして見破るんだ。
このまま騙されてくれないんだ。
痛み、悲しみ、不安、絶望。黒い感情が自分の中でドロドロと渦を巻く。
お願いだからこれ以上踏み込んでこないで。
そんなことを願うがレックスの言葉は止まらない。
「アズリア知ってる?君、嘘吐く時俯いて髪の毛弄る癖があるの。学生の頃からそれ、変わらないよね」
「!」
言われてみて初めて自分が今無意識の内に髪を弄っていた事に気付く。
迂闊だった。相手が誰よりも深く自分を知る人物だということを今更ながら実感する。
そのまま近づいてくるレックスにアズリアは数歩後ずさる。
しかし距離を一気に詰められて、体と体が触れ合いそうなくらいの近さになる。
声が近くて呼吸の音すら聞こえてきそうになる。
その温もりに全てを預けてしまいたくなる衝動を強引に押さえ込む。
ここで甘えるのは絶対に許されない。
「…嘘なんか吐かないでちゃんと、理由教えてくれよ。そうじゃないと、諦める事なんて絶対できない」
「だから、嘘じゃないと言っているだろう…!お前への気持ちはもう随分前に冷えていたんだ。今まで貴様に付き合ってやっていたのも情が移ったからだ」
「好きでもない男に同情で抱かれてやるほど安い女じゃないだろ、君は!」
荒い声にアズリアの体がビクリと震えた。核心を突く言葉が心を抉る。
鋭利な刃物で刺されたかのような痛みが体中を襲う。
直接傷を負ったわけではないのに戦いで負う傷なんかより何十倍も痛い。
それを無理矢理声に変える。
「ハッ…まさかお前、女が好きな男にしか脚を開かない綺麗な生き物だとでも思っていたのか? 幻想を抱くのは勝手だが女だって性欲はあるんだ。愛がなくたってセックスはできる。それに生憎私はお前が望むような綺麗な女なんかじゃない。そして寂しい時や物足りない時側にいてくれたのはお前じゃなかった。そういうことだ」
「っ……」
いっそ憎んでくれればいい。
忘れ去られるくらいなら憎まれてでもその心に存在を残したいと思ってしまう。
なんて浅ましい人間だ。
そこから生まれるのはどうしようもない嫌悪感。けれど、忘れられたくないという想いがそれに勝る。
「…本当に嫌いになったんなら、俺の目見て言ってくれよ」
レックスがその言葉と共に手を伸ばしてくる。
やめてくれ。触らないで。今、その温もりに触れてしまったらきっと全てが終わりになる。
抑えてた想いが溢れ出す。だから。
「私に軽々しく触れるな!」
パシっという音共に伸ばされた手は振り払われる。激情を押し隠した声が上がる。
今度は相手の目を見て叫ぶ。
「私は、お前のことなんて大嫌いだ…っ!」
完全な拒絶。
その言葉。振り払われた手。その先にあったのは笑顔を潰した、今まで見たことのない表情。
泣きそうに歪むそこにあるのは絶望。
そんな表情を浮かべたまま振り払われた手を見つめるその眼は虚ろだ。そこに、恋焦がれた光はない。
音が聞こえた。
心の潰れる音が。
何の音もない部屋で、ずっと愛していた優しい心が壊れていく音を聴いた。
「あ…私……」
「…ごめんね」
言いかけた言葉は感情の篭らない声に遮られる。
虚ろで空っぽな声。愛の言葉をくれた唇が生まれて初めて聞く音を出す。
「しつこく縋ったりしてごめん。好きでもない男に抱かれるのなんて、辛かったよね。でももう付き纏ったりしないから安心して。指輪は、捨ててもらっても構わないから君が持ってて。俺が持ってても意味ないし。もう二度と会いに来たりなんかしないから、その人と幸せになってよ。その方が俺も幸せだし」
そう言って笑おうとして失敗した。きっと本心からではない言葉を無理矢理搾り出してるから体がついてこないんだ。
でも言わなきゃならない。抱きしめたい。側にいたい。そんな想いは今は自分の敵だ。
敵は殺さなきゃならない。
「一時でも君に愛してもらえて幸せだったよ。嘘でも側にいてくれて嬉しかった。君が幸せになれるのを祈ってる」
そこまで言って背中を向ける。表情を見られたくない。だから今すぐにでもこの場を去ろう。
好きな相手の幸せを祈り、身を引く「いい人」でいられるうちに。本当の心をぶちまけてしまう前に。
だってここで本心をぶつけた所でどうにもならないじゃないか。
相手も自分も傷つくだけだ。なら、そんなのは口にしない方がいい。
「さよなら。もう二度とここには来ないよ」
「あ……」
歩き出す背中に思わず手が伸びる。
嫌だ。行っちゃ嫌だ。側にいて。大嫌いなんて嘘だから。本当は大好きだから。
お願いだから振り向いて。そうしたら全部嘘だって笑うから。
また大好きだって言って抱きしめてキスをするから。
だから行かないで。
そんな願いも空しく、レックスは一度も振り返ることなく部屋を後にした。
その場にたった独り取り残されたアズリアはその場にへなへなと腰を下ろした。
その手から握り締めていた指輪が零れた。
体中の力が入らない。心には何も浮かばない。
完全な無。そこにあったのはそれだけだった。
「…はは、ははは……」
笑いがこみ上げた。
あっけない。あっけなさすぎる。
沢山の愛の言葉も、幸せな記憶も全部簡単に壊れた。
ほんの少しの嘘と、残酷な言葉で。
――これで良かったんだ。そう言い聞かせる。
だって、二人でいてもその先に幸せはないんだから。
世界から認められていない今、セックスをした所で子供は出来ない。
結婚をして家庭を持つなど叶いようもない夢だ。


―学生時代、将来の夢は何だと聞いたことがある。
彼は笑いながら「可愛いお婿さん」と言っていた。その時は冗談だと思って怒ったりした。
けれど今なら分かる。それは他でもなく本心だったのだと。
幼い頃に両親を失い、親の愛情や温かい家庭といったような物と無縁な生活を送ってきた彼だからこそ、きっとそれに酷く憧れていたんだろう。
子供の頃からずっと抱いていたささやかな夢。それを叶えてやることすら自分はできない。
誰もが持ってて当然の権利すら持たない自分はあまりに無力だ。
だったらこんな滅多に抱けない女に縛り付けておくより、他の女と幸せになった方がいいだろう。
その方がお互いの為だ。
それでお互いに子供を産んで、いつか昔の友達として笑いあうんだ。そして今幸せだと誇らしく言うんだ。
こんな不毛な関係を続けるよりそっちの方がずっといい。
時には明日を守るために今の幸せを捨てる覚悟だっているんだ。
大丈夫。痛いのは今だけだ。苦しいのは今だけだ。いずれまた笑えるようになる。
全部「いい思い出」に変えることができる。
だからこれで良かったんだ。そう思うのに。なのにどうしてだろう。
「…やだ…好き…大好き…離れたくなんかなかった…側に、いたかった……っ!」
零れる言葉と涙は止まらないんだ。
誰か、この頭を壊して下さい。あの人を思い出さなくてもいいように。
体を焼いて下さい。もうあの人を求めなくていいように。
喉を、眼を、潰して下さい。あの人の名を呼べないように。涙を溢さなくてもいいように。
寂しいと悲鳴を上げる心を一突きにして、そして最後にそこに残った想いを、あの人に届けてください。
その方がこのまま生き続けるより何十倍もいい。
他の男に抱かれるより、そうして死んだ方が幾らかマシだ。
だってこの体はこんなにも鮮明にあの人を覚えてるんだ。
匂い、体温、少し冷たい指先、熱い吐息。その全てが忘れたくても忘れられないんだ。
抱かれたいって求めてしまうんだ。
忘れたいと切に願うのに頭に浮かぶのは皮肉にも幸せな日々の思い出だ。
初めて、自分にも分かる言葉をくれた人だったんだ。
「アレはもう駄目だ。だからアズリア、お前が代わりに跡取りとなるんだ。
軍学校への手続きだってしてやるし私が直々に剣の指導をしてやる。
だから家名を汚すような真似だけはするなよ」
イスラが病魔に侵されていると知った時に父が真っ先に発した言葉だ。
そこに私の意志は関係ないの?イスラや私より家の方が大事なの?
そんなこと、思ったところで口にはできなかった。
だからせめて喜んでもらえるよう死に物狂いで努力した。
見捨てられないように。嫌われないように。
親に敷かれたレールの上を歩いている日々だった。でもその中でたった一つだけ希望を見つけた。
帝国初の女性上級仕官になりたい。馬鹿みたいだけれど、生まれて初めて自分で決めたこと。
諦めたくない夢。大切だった。
それを嬉々として親に教えた。喜んでくれると思った。
けれど返ってきた言葉は残酷だった。
「帝国初の女性上級仕官になりたいだと?寝言は寝て言え。女如きが上級仕官になどなれるわけがないだろう。そんな馬鹿げた夢を口にしている暇があったら勉強でもしたらどうだ?」
その言葉はアズリアの心を深く傷つけた。
自分自身を否定された気がした。自分の意志で夢を持つことすら許されない。
この家が必要としているのは家名を支える都合のいい人形だけだ。
いつだって息苦しかった。苦しくて仕方なかった。
そんな苦しさにも慣れた頃、家を離れ学校へと通うことになった。
もしかしたら自分を認めてくれる人がいるかもしれない。
そんな希望を持ったがそれはすぐに壊された。
「アズリアって女の癖に上級仕官目指してるんだって。馬っ鹿じゃねーの。女が上級仕官になんてなれるはずねーのに。ちょっと頭が良くて強いからって生意気だよな。女の癖に」
「あの子ってちょっと異質じゃない?話、全然合わないし。本気で上級仕官目指してるなんて馬鹿みたい。女がなれるわけないのに」
そんな陰口を何回も叩かれた。
いいんだ。そんなの慣れてる。居場所なんてなくたって生きていける。独りでだって生きていける。
誰に認められなくても、誰にも愛されてなくても心臓が止まるわけじゃない。
だから平気。
そんな、孤独が当たり前だと思っていた頃に出逢ってしまったんだ。
出逢ったキッカケは些細なことだったかもしれない。それでも出逢ったんだ。
他人が溢れるこの世界でたった一人、自分を認めてくれる人に。
自分の全てを愛してくれる人に。
彼もまたこの世界では異質な存在だった。孤独に生きてきた生き物だった。
「独り」だった二人が出逢って「二人」になった。
出逢った時、最初はどことなく余所余所しかったけれどだんだんと距離は縮まっていった。
他の人間と違って深く詮索してこないのが嬉しかった。
「変だよな。私はたまに自分が誰なのか分からなくなるんだ」
二人が出逢ったアルサックの木の下でアズリアは自嘲気味に言葉を吐いた。
「親の期待に必死に応えようとしている私。その親を裏切ってまでいまだに夢を捨てられない私。私はそのどちらにもなれないでいる。しかもその夢というのが帝国初の女性上級仕官なんていう馬鹿げたものだ。自分でも笑いが出るよ」
風が吹いて花弁が空を舞う。淡い桜色が視界を擽る。
その風に言葉が乗る。
散る花びらと共に言葉が春の空気の中を踊る。
「馬鹿みたいなんて言うなよ。君自身のことだろ」
舞った言葉が辿り着いたのは心の一番柔らかい場所。
暖かい風に靡く夕日の様な髪。青空をそのまま映したかのような藍の眼。
それが淡いピンク色に彩られた記憶の中で鮮烈に色を落とす。
無色の言葉に鮮やかな色が付く。
「親の期待に応えようと頑張ってる君も、夢を捨てきれない君もどちらも君自身だろ。君が愛してやらないでどうするんだよ。自分の夢を馬鹿みたいなんて言うなよ。叶いようのない夢だって努力すればそれに近づくし、例え手が届かなくともそこまでの努力は無駄なんかじゃないだろ。簡単に諦めるなよ。俺は、夢に向かって努力してる君がとても好きだよ」
目の、奥が熱い。体中に熱い何かが駆け巡る。
その時生まれた感情をなんて呼ぼう。
だってそんなこと、誰も言ってくれないと思っていたんだ。
たぶん言ってくれるのは誰でもよくて、でも誰も言ってくれなくて。
ずっと苦しかった。自分自身の存在が認めらていないような気がしてとても寂しかったよ。
平気だなんて嘘だった。辛くて切なくて、でも誰かに認めてもらいたくて、愛してもらいたくって仕方なかった。
ねえ、私はここにいてもいいのかな。馬鹿みたいでも、夢をみていいのかな。
貴方の隣で生きていていいのかな。
生まれて初めて、言葉が通じた気がしたんだ。
話している言語は一緒でも今まで貰った言葉は全て分からない物ばかりだった。
心にまで届く言葉を初めて貰った気がした。
それはきっとこの世で一番大切な物。
それをずっと大切にしていこうと思っていたんだ。
この人の隣で生きていたいと思ったんだ。
だけど。
「…はは、無様だな……」
薄暗い部屋の中アズリアは虚ろに笑う。
今ここに残ったのは意味を成さない約束が篭った指輪だけだ。あの時守ろうと思ったものはもうない。
自分の手で全部壊してしまったのだから。
なのに悲しいと思うなんて。涙が止まらないなんて。自分勝手にも程がある。
こんな自分は幸せになる資格などない人間だ。
きっとこの現実はその罰なのだろう。
そうでなければ何故出逢わせたりしたんだ。
出逢わなければ幸せなんて知らなくてすんだ。孤独にだって慣れてこの胸の痛みだって知らずに済んだ。
一時的な奇跡と昔の幸せな日々の思い出は時として現実より重く残酷だ。
それは戻りようのない過去でしかないのだから。手が届かない幸福でしかないのだから。
その事実が溢れ出す切なさに拍車をかけた。
「…嫌だ……レ、ックス…好き…ックス…大好き…側に、いて……」
涙と共に溢れた言葉は叶いようのない願い。
優しい夢は終わり、色を失くした部屋の中でアズリアの声は誰に届くこともなく零れて消えた。


「…うして、だよ……っ!」
漏れた言葉は喉を潰してしまったかのような音だった。
掠れたその声は自分の胸の痛みを表しているかのようで嫌だった。
やりきれない気持ちが止まらなくて、思わず近くの壁を力任せに殴る。
ガッという鈍い音と共に、殴りつけた拳から自分の髪と同じ色の生温かい液体が滲む。
けれど痛みはない。それ以上に痛みを訴えてくる場所があったから。
「な、んで…」
嗚咽と共に零れるのはどうしようもない苦しみ。
物に八つ当たりするなんて情けない。けれど、この切なさを消す方法を知らないんだ。
ポケットの中に忍ばせた新しい指輪。用意していた愛の言葉。
きっと、笑ってくれる。そう信じていた。
今日は、幸せな日になる予定だったんだ。
二人の新しい記念日になる予定だったんだ。
幸せになる為の要素なんて沢山あった。
なのにどうして。
問うた所でその問に答える者はいない。
無意味な自問。
それでも誰かを責めずにはいられなかった。
――「もしも」なんて言葉は好きじゃない。絶対に有り得ない未来を考えるなんて不毛なだけだ。
それでも考えずにはいられない。
もしも今日、会った時すぐにでも指輪を渡して愛の言葉を言い、抱きしめたならこんなことにはならなかっただろうか。
幸せなままの二人でいられただろうか。今とは違う未来があっただろうか。
そこまで考えてその考えを捨てる。
馬鹿げてる。有り得ない幸せな未来を考えるなんて余計惨めになるだけだ。
今ある事実は、二人の関係は完全に終わってしまったということだけだ。
――最後まで「いい人」でいられただろうか。彼女が他の男と幸せになることをきちんと祝福できる「いい人」。
せめて彼女の目に映る自分はそんな物語のヒーローみたいな男だったらいい。
彼女が、他の人間と躊躇いなく幸せになれるように。
…本当は「いい人」になんてなりたくなかった。情けなくても、女々しい男になったとしても側にいたかった。
だって、他に帰る場所を知らないんだよ。
誰に「ただいま」って言ったらいいか分からないんだ。
寂しさを明け渡してもいいと思える相手を知らないんだよ。
言葉にならない悲鳴が心に浮かんで、そのまま音となる前に消えた。
拳から流れた血が指に嵌る指輪を汚す。
紅く濡れた指輪はその意味も輝きも失っていた。

「おはよう」「いってきます」「おかえりなさい」。そんな当たり前の挨拶ができる二人でありたかった。
果たされることのない約束の様な言葉。
もう二度と交わされることのない愛の言葉たち。
それはもう永遠に叶うことのない夢。
夢を現実に変える術を、今の二人は持たなかった。


つづく

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