レックス×アズリア 3



誰か教えて欲しい。人が人を愛する意味を。肌を重ねて温もりを分け合う意味を。

「ったく、先生は無茶ばっかりするよな。俺も人のこと言えねぇけどな」
「そうそう。いーっつも心配ばかりかけるよねぇ、二人とも」
「あ、はは…ごめん」
帝国本土から島へ帰る途中の船の中、傷跡が生々しいレックスの拳を見ながらカイルとソノラが声を上げた。
その二人に苦笑いを返す。
大丈夫。ちゃんと笑えてる。その証拠に二人とも何時もと変わらない態度で接してくれるじゃないか。
そう言い聞かせてまた笑う。
弱音なんて吐いちゃいけない。笑っていなきゃ。だってそうじゃなきゃ「何時も通り」に戻れない。
このまま笑っていればきっと、何もなかったかのようにまた「何時もの毎日」に戻れる。
彼女がいない日常が当たり前になって定着する。
そうすればこの胸の痛みだって何時かは消えるだろう。
初めから存在していなかったかのように。
そんな事を考えたら心臓が締め付けられるように痛くなった。
その痛みを笑顔で消す。
「ごめん…俺、ちょっと外の空気吸ってくるね。何か船酔いしちゃったみたいで」
レックスはそう言うと逃げるように部屋を後にした。その言葉を発した笑顔が凍っていることにも気付かずに。
そんな早足で部屋を後にしたレックスをカイルとソノラは何も言わず見つめていた。
バタンという重い音だけが静かな部屋に響く。
「…ねえ」
「何だ?」
静寂に包まれた部屋の中ソノラが控えめに声を出す。
「…先生、ちょっと変じゃなかった?」
「そうだな」
ソノラの質問に答えるカイルの態度はどこか素っ気無い。
「アニキ、冷たい」
ぶーぶーという彼女独特の口癖を付けながらソノラはカイルを睨む。
仲間の様子がおかしい時にそれを見て見ぬ振りをするようなカイルの態度がソノラには信じられなかった。
睨まれたカイルはそんなソノラを横目で見ながら大きく溜息をつく。
「仕方ねえだろ、向こうが何にも言わねえんだから。何も言わねえってことは言いたくねえか言えねえかのどっちかなんだろ。本人が話したがらねえのを俺たちが無理やり詮索してもあっちにとっちゃあいい迷惑でしかねえだろうが。
俺たちにできることって言ったら先生が自分から話してくれる待つ事ぐらいだろ」
「―…そっか、そうだね。アニキの言う通りだよ。あたし、無神経だったね…」
カイルの言葉にソノラは項垂れる。自分の思慮の浅さを思い知り、そのことに怒りが生まれる。
カイルはそんなソノラをポンポンと撫でるように軽く叩く。
「そんな事で落ち込むな。お前はカイル海賊一家の一員だろ。自分のやってることに胸張ってろ。心配しなくともお前の優しさはちゃんと周りに伝わってるからよ」
「…うん」
その言葉と自分を勇気付けてくれる手にソノラは顔に笑みを取り戻す。
自分の称号と、今自分を支えてくれている手を誇りに思った。
そしてこの手が自分を支えてくれているように、自分もあの人を支えてあげられればいいと思った。
ソノラはそのまま顔を上げ、レックスの消えたドアをずっと見つめていた。

部屋を出てそのまま甲板へと向かうと空には満天の星空が広がっていた。
船の上で見る星空は島で見るものとも、帝国本土で見るものとも違って見えた。
肌を撫でる風が冷たくて。それが心にも吹いてそのまま凍らせてくれればいいのに…などという馬鹿げたことさえ思った。
この苦しみも思い出も、全部凍らせて捨ててしまえたらどんなに楽だろうと。
「せーんせ」
不意に背後から明るい声が掛けられる。
聞き慣れた声を持つその人物は笑みを浮かべながら夜の闇に溶けるかのようにこちらに近づいてる。
「こんな所にいると風邪引いちゃうわよ。どう、アタシの部屋で一杯やらない? そーんなシケた顔されてるとこっちまで暗くなっちゃうし」
そう言われて慌てて苦笑いを作る。正直、今の情けない自分は誰にも見られたくなかった。
「…そんな酷い表情してるかな?」
「そりゃもうバッチリ」
控えめに出した返事にウィンクまで付けて返される。
その言葉にほんの少しだけ悩んだ後顔を上げて言う。
「そうだね…今日くらいはいいかな…」
酒に逃げるなんてズルイとは思うが今だけは素直に仲間の好意に甘えてもいいだろうか。
せめてまた笑顔が作れるようになるまでは。
そんな事を思いながら夜の闇に沈む廊下を無言で進む。
言うべき事はあるのだけれど、何をどう言ったらいいのか分からない。
二人ともお互いにかけるべき言葉を持たずに歩き続ければ、耳に入るのは心地良い波の音だけになる。
重い時間を抱えたまま船の奥のスカーレルの部屋に足を踏み入れる。
以前にも何度か入ったことのあるその部屋はまるで年頃の女の子の部屋のように綺麗に片付けられ、華やかであった。
「その辺テキトーに座っちゃって」
そう言うとスカーレルは奥の棚に飾ってある瓶を一本取りに行く。
そのままやる事のないレックスはスカーレルの部屋をゆっくりと見渡す。
物がある割にキッチリと片付いているその部屋はどこか彼女の部屋に似ているような気がした。
そんな事を考えたら笑いが出そうになった。
フラれた相手のことを何時までも引き摺っているなんて馬鹿みたいだ。
何時から自分はこんなに女々しい男になったんだ。
笑いと共に浮かんだのは彼女の微笑みでそれがまた胸を締め付ける。
「ハイ、どーぞ」
「…ありがとう」
何時の間にかこちらに戻ってきていたスカーレルが酒の乗ったグラスを手渡す。
手から手へ渡されると中の鮮やかな赤い液が揺れて零れ落ちそうになる。
それをじっと見つめるレックスの目はまるで心を無くしたかのような寂しい色をしていた。
「さあ、グイっといっちゃいなさいな!」
いっきいっき、という宴会ではお決まりの文句でも続けそうなスカーレルの言葉にレックスはグラスの中身を一気に呷った。
久々に喉に通ったアルコールは熱くて甘かった。
吐く息にも熱が宿る。
そんなレックスの様子を見守りながらスカーレルはゆっくりと言葉をかける。
「…で、何があったのよ?話したくないなら話さなくてもいいけど、誰かに話しちゃえばスッキリするわよ。アタシとしてはなくなった指輪が気になる感じかしら?」
その言葉に思わず左手に目を落とした。
少しだけ日に焼けた肌には指輪の後がクッキリと残っていた。
そこで輝いていた物はもうない。そこに篭められた約束も想いも、もう意味を成さない。
それを見ないようにして目を瞑ると同時に言葉を吐き出す。
「…今だけ、弱音吐いてもいいかな?聞き流してすぐに忘れてもらって構わないから。また明日には何時も通り笑うから。だから今だけ情けない男になってもいいかな…?」
苦笑いを作ろうとしてももうそれさえ巧く作れない。
軋む胸を支配する言葉が剥き出しのまま溢れ出す。
「―…どうにかしたいのに、どうにもならない時ってどうすればいいんだろう…?」
ポツリポツリと零れるレックスの言葉をスカーレルは黙って聞く。
俯いているから表情は分からない。それでも、泣きそうな顔をしているんじゃないかと思った。
搾り出されたような声が痛々しい。
「どうにかしたいんだけどその方法が分からない。どうにもならないのに、どうにかしたい。そんな時は諦めるしかないのかな…?そのまま全部忘れるしかないのかな…?」
震える声から紡がれるその言葉に色を付けるならきっとそれは今の世界を支配してる夜のような色が似合う気がした。
そこから覗くのは不安、寂しさ、絶望。そういった色だ。
常に皆を導く頼もしい姿からは想像できないほどに弱々しい今のレックスにスカーレルは驚きを隠せずにいた。
「諦めたくないのに諦めなきゃいけない時ってどうしたらいいんだろう…。そのまま忘れようって決めて全部忘れられるものなのかな…? 一緒にいた思い出とか温もりとか…そういうの全部、何時かちゃんと忘れられるものなのかな…?」
そんなことできるわけないのに。
だって、こんなにも鮮明に覚えてるんだ。それも何時かは全部消えてなくなってしまうんだろうか。
そこにあった想いも愛しさも全部幻だったと割り切ることができるようになるんだろうか。
だったら何で人は出逢うんだろう。
全部無意味なものになってしまうのなら、人は何故誰かを愛し、思い出を作るんだろう。
こんな思いをしなくちゃならないのなら独りで生きていく方がずっと楽だ。
それなのにどうしてあの人の側に居たいと、思ってしまうんだろう。
この世界に人は沢山溢れているのに、どうしてあの人じゃなきゃ駄目なんだろう。
そんな事を考えても答えなど出ない。
それでも誰か教えて欲しい。
人が人を愛する意味を。肌を重ねて温もりを分け合う意味を。
「運命の赤い糸だっけ?ああいうのがちゃんと見えればいいのにね。そうすれば、誰も傷つかずに済んだのに…」
運命の相手なんて初めから決まってればいい。
そうすれば誰もが皆、きちんと相手を間違わずに上手に愛することができるのに。
そうであったなら少なくとも自分も彼女も傷付くことはなかった。
――大嫌いだと言った彼女の顔は泣きそうだった。
そんな顔をさせてしまったのは自分だ。
笑っていて欲しかった。それだけなのに、結局それすらもしてあげることができなかった。
傷付けることしかできなかった。
自分の無力さが歯痒い。
――嘘だと分かる嘘は残酷だ。
どこからどこまでが嘘か分からないのだから。
もしかしたら全部嘘かもしれない。大嫌いだと言った言葉だけが嘘かもしれない。
けれど他に好きな男ができたというのは本当かもしれない。
何をどこまで信じたらいいか分からないからどうしようもない。
本当のことを話せないほど自分は彼女に信頼されていなかったのだろうか。
そう考えるとどうしようもなく切なくなった。
側で支えあえる二人になりたかったのに、それも自分の夢でしかなかったのだろうか。
「…そこに力ずくでどうにかするという方法はないの?」
スカーレルが落ち着いた声で問う。
察しのいい彼はなくなった指輪と少ない言葉だけで凡その事情を理解したらしい。
心配そうな顔が目に映った。
真摯なその目を見ないようにして言葉を返す。
「…昔の俺だったら、そうしたかもね。俺がまだ彼女と会ったばかりの頃のような子供だったらきっと彼女に「俺が幸せにしてやるからついてこい」とかカッコイイ事言って全部捨てて彼女を掻っ攫ったかもしれない。
けど、今はもうそんなことできないよ…。だって、そんな事したら彼女は家や自分の夢を捨てなきゃならない。彼女が寂しいと言って泣いても俺は彼女を親の元へ帰してやる事だって出来ないし、もし俺に何かがあって死んでしまった時彼女を守ってやる人間もいない。
そんな生活強いる事なんて…できないよ。愛情や優しさだけで生きていけるほど、人は簡単じゃないよ」
大人になんてならなきゃ良かった。
そうすればきっと色んな事を考えずに二人で幸せになれる選択肢を迷いなく選べたはずだ。
でももう昔には戻れない。
お互いに背負うものは増えたし、体だって男と女になってしまった。
どんなに願ったって、ただ隣で無邪気に笑い合えていた頃にはもう戻れない。
キスの先がないなんていう幻想を持てる様な青さはもうなかった。
「俺は…強くなりたいと願い続けて、剣の力を手に入れて強くなれたと思ってた。
けど、違った。今の俺は好きな相手の幸せを守ってやることすらできない、無様で無力な人間だよ…」
心の中にずっと住み続けていた弱さが声になって零れた。
誰にも見せたくなかった暗い部分が呻く。
「みんなの先生」や「いい人」である為に押し殺してきた自分自身に対する絶望。
そこにはなりたいと願った強く優しい男はなく、臆病な一人の人間がいるだけだ。
「…ごめん、何か愚痴ちゃって。大丈夫だよ、俺は。こんな事くらいでヘコむほどヤワじゃないから。明日にはまた笑えるようになってると思うから、今のは誰にも言わないで」
そう言ってレックスは腰を上げた。
落ち込んでるとはいえ女々しく醜態を晒してしまった今、そのままここに居続けるのは耐えられなかった。
立ち上がり、そのまま背を向けるレックスに掛ける言葉をスカーレルは持たなかった。
今、誰がどんな言葉をかけてもその胸に生まれた深い闇を消すことなどできないだろうと知っていたから。
無言のまま立ち去るレックスを見送った後スカーレルは重い溜息を吐く。
今更ながらに自分が彼の事を何一つ理解していなかったのだと思い知り、苛立つ。
「スカーレル…?」
先程レックスが消えたドアから控えめに声を出し、顔を覗かせているのはソノラだった。
「先生の様子…どうだった?」
小走りで自分の元へとやってくる。恐らく、ずっと心配していたのだろう。
そんなソノラの頭を優しく撫でながらスカーレルは落ち着いた声で言葉を紡ぐ。
「…何だか相当参っちゃってるみたい。でも、深くは詮索しないであげてね。きっと今のセンセは自分の中に踏み込まれるのを嫌がるだろうから。アタシが教えられる範囲でなら教えてあげるから」
ソノラはそんなスカーレルを見ながらされるがままになっている。
どうにかしてあげたいけど何も出来ない自分に歯痒さを感じているのは二人とも同じで、そこに不自然な沈黙が生まれた。
「―…あたし、先生が笑顔作るの失敗する所、初めて見たなぁ」
静寂を先に破ったのはソノラの小さな声だった。
そんなソノラにスカーレルもゆっくりと返事を返す。
「そうね…センセは何時だって笑ってたからね。ソノラ、アタシね…今までセンセはずっと強い人だと思ってた。どんなに辛い事があっても笑顔を崩さず、皆に元気を与えてくれる強くて優しい人。そんな、アタシとは違う生き物だと思って憧れていたのよ。けど、本当は違ったのね…」
スカーレルの落ち着いた声は歌のようにソノラの耳に届いた。間を置くことなく続きの言葉が流れる。
「センセだってアタシ達と同じ弱い人だったのね…。
ただ、「みんなの先生」としてアタシ達を引っ張っていく為に無理してでも強く優しい人であろうとしただけ。アタシ達はみんなセンセに自分の勝手な理想や幻想を押し付けて強い人だと思い込んでた。
そしてその理想がますますセンセを孤独にしていってたなんてアタシは今まで気付きもしなかった…。自分の愚かさが憎いわ」
「スカーレル…」
ソノラは暗く沈むスカーレルの顔を覗き込むと笑顔を向ける。
「大丈夫だよ。先生はきっと、全部分かってるから。きっとあたし達のこと好きでいてくれるから。だから先生が少しでも早く笑えるようになる為にもあたし達が笑わなきゃ。ね?」
「―…そうね」
ソノラの言葉にスカーレルの顔に笑みが戻る。その笑みのまま、また口を開く。
「ソノラ…アタシね、今なら思うの。センセにとって隊長さんは唯一の救いだったんじゃないかって」
歌の様な声がまた夜の空気の中に流れる。
「センセはアタシ達が思ってるほど強い人間ではなくて、でも強い人間であり続けなきゃいけなくて、きっとアタシ達といる間息苦しさを感じたことだってあるはずだわ。
けどセンセってああいう性格だからそういうの絶対口にしないじゃない? センセって嘘吐く位なら何も話さないタイプだけど、その分話してないことも多いと思うの。
そういう誰も気付かないセンセの弱さに気付いてあげられたのが隊長さんだったんじゃないかって思うの」
言葉を紡ぐ声は止まらない。ソノラはそんなスカーレルの落ち着いた声が好きだった。
「苦しかった…でしょうね。唯一自分を理解してくれる人と敵対するのは。でもね、敵対した相手を信じ続けるセンセの想いの強さも、そんな状況でも捨てきれなかった隊長さんの強い想いもアタシは羨ましくって仕方なかった。言葉にはできない強い絆で結ばれてるなって思ったのよ。
だって人の気持ちなんて一秒もあれば十分なくらい変わりやすいじゃない? 流されて変わるのが当たり前なのよ。人は誰しもそんなには強くなれないから。だから、それでもお互いを信じ続けて結ばれた二人はアタシの憧れだった。あの二人には幸せになってもらいたいってずっと思ってた。だから…なんとかしてあげたい。それなのに何もできないのが歯痒いわ…」
「あたしも、悔しいよ…」
ソノラは強く唇を引き締める。力がない自分が悔しい。
けど、一番悔しさを感じているのは他でもなくあの人だろう。
だからせめて祈ろうと思った。
あの二人にもう一度笑顔が戻るように。
またみんなで幸せになれるように。
祈らずにはいられなかった。

気まずい空気の中を逃げ出して、暫く使われていない自分の部屋に戻ればそこは完全に闇の世界だった。
他に使う人間もいないということで島に残ると決めた時に降ろした物以外はまだそのまま残っていたその部屋は、必要な物を降ろした分こざっぱりとしていた。
ベッドに横になった所で眠れないことは分かっていたがやりきれない気持ちを鎮めたくてそのまま目を閉じた。
真っ黒な世界に映える白いシーツの上に血の様な色の髪が散らばる。
目を閉じた先の真っ暗な世界はずっと隠してきた心の黒い部分が滲み出してきたようで腹立たしい。
――「化け物」。
遠い昔、自分に投げつけられた言葉が頭に浮かぶ。
それはまだ背も低く、力もなかった頃に言われた言葉だ。
大きめの学生服を身に纏っていた頃、自分は独りだった。
「アイツ、入学試験満点で通ったんだって。おかしーんじゃねーの。人間技じゃねーよ」
「何でもできる人間って気味悪いよな。本当はシルターンの妖孤辺りが化けてんじゃねーの」
「アイツ両親いないらしいけど、実は自分で殺してたりして。実の親の肉喰ったからあんな頭良くて強いんだよ」
「なあ知ってる?アイツ、はぐれ召喚獣の血啜ってるからあんな肌白いんだってよ。化け物だよ」
異質な人間が排除されるのはこの世の常だ。人は自分と違う生き物を恐れるから。
人は誰しも自分より不幸な誰かを作り上げることで自分を慰めようとする。
親という守ってくれる存在を早くに失った自分は何時だってその対象となった。
根も葉もない噂を立てられ、疎外される。
そんな事は当たり前だった。
村にいる時も何時だって「可哀想な子」として見られて裏に哀れみを隠した中途半端な優しさを押し付けられた。
本気で救う気もないのに向ける優しさは自己満足以外何物でもない。
優しく綺麗な自分に酔っているだけだ。そのエゴを向けられた相手の気持ちも分からずに。
哀れまれた相手はただ苦しいだけだ。
苦しかった。他人に哀れまれてまで生きなければいけないこの身が憎かった。
他人なんて誰も信じられなかった。
だから笑顔で壁を作って優しい言葉で拒絶した。
理想の自分を築き上げて、本当の自分を隠せばもう傷付くこともない。
幼く不器用であったあの頃、そんな生き方しか選べなかった。
大切な人を守れるように強くなりたい。
両親が死んだ時に願ったこと。
けれどそんな願い、今は意味を成さない。
守りたい大切な人なんてこの世のどこにもいなかったのだから。
どうして生きているのか分からなかった。
いっそあの時両親と一緒に死ねれば良かったのに。
そうすればこんな苦しい思いしなくて済んだはずだ。
両親の命の犠牲の上に成り立つこの生は捨てようとしてもそれを許さない重い鎖が付けられていた。
どうして両親はこんな命を守り抜いたんだろう。
この命にそんな価値なんてないのに。
そんな事を思い続けている内に季節は巡る。
誰もいない時間を抱えたまま手足は伸び、体は子供から大人になりつつあるその刹那な時の中で運命は巡る。
雪のように花びらが降るアルサックの木の下で出逢った少女は不思議な人だった。
学内で囁かれている噂を知らないはずはないのに自分に近づいてくる異質な存在だった。
「帝国初の女性上級仕官になりたい」それが彼女の夢だという噂を聞いた。
馬鹿みたいだと同級生は笑った。
けれどそんな馬鹿みたいな夢でも、生きる意味を持たない自分には眩しく思えた。
羨ましかった。自分とは違って自分の夢を持って生きている彼女が。
夢に向かって努力するその姿に憧れた。
眩しいその姿は自分とは違う生き物だと思っていた。そんな時にその日はやってきた。
「変だよな。私はたまに自分が誰なのか分からなくなるんだ」
いつも気丈な彼女が小さな声で自嘲気味に言葉を吐いた。
白く雪の様な花が散る。その中で初めて聞く弱々しい声が響く。
「親の期待に必死に応えようとしている私。その親を裏切ってまでいまだに夢を捨てられない私。私はそのどちらにもなれないでいる。
しかもその夢というのが帝国初の女性上級仕官なんていう馬鹿げたものだ。自分でも笑いが出るよ」
どこか泣きそうな表情にも見える彼女は、まるで散るアルサックの花のような儚さを持っていて、その時初めて気付いた。
自分の目の前にいるのはただ一人の少女なのだと。
憧れていた強く気丈な別の生き物なんかじゃない。
そこにいるのは自分と同じ孤独に怯え、未来に戸惑う、大人になろうと必死な一人の、どこにでもいる少女だった。
「馬鹿みたいなんて言うなよ。君自身のことだろ」
何かを考える前に言葉が飛び出した。
否定して欲しくなかった。自分の生きる意味を。
ずっと憧れていた強さを否定して欲しくなかった。
本能が続けて言葉を放つ。
「親の期待に応えようと頑張ってる君も、夢を捨てきれない君もどちらも君自身だろ。
君が愛してやらないでどうするんだよ。自分の夢を馬鹿みたいなんて言うなよ。
叶いようのない夢だって努力すればそれに近づくし、例え手が届かなくともそこまでの努力は無駄なんかじゃないだろ。
簡単に諦めるなよ。俺は、夢に向かって努力してる君がとても好きだよ」
他人なんてどうでもよかったはずなのにこんなにも言葉が出てくるのが不思議だった。
けれどたぶんそれは本心だった。
自分の吐く言葉は残酷かもしれない。
彼女が自分の夢を貫くのにはきっと沢山の痛みや悲しみを伴うだろう。
それでも諦めて欲しくなかった。
それを貫き通した先にある強さを、希望を、そして笑顔が見たかった。
「…俺はね、正直羨ましいよ。夢を誇りに生きれる君が。俺には…そういうの何にもないから。生きてる意味だって、いまだに分からないんだ」
どうしてそんな事を言おうと思ったのか分からなかった。
自分の弱さを曝け出してくれた彼女になら寂しさを明け渡してもいいと思ったのかもしれない。
同じ孤独を知る彼女と感傷を分け合いたかったのかもしれない。
気が付けば誰にも見せたくなかった本音が声となっていた。
怖かった。
返ってくる言葉が。だってこんな弱い人間、きっと誰も好きになんてなってくれない。
嘲笑われて哀れまれるだけだ。今までずっとそうだったのだから。
誰も分かってなんてくれないと、その時まで思っていたんだ。
「馬鹿じゃないのか、お前」
優しい響きを持った声が心に降り注ぐ。
言葉は冷たくとも、その声は突き放すような厳しさはなく春の木漏れ日のような暖かさが宿っていた。
「生きる意味なんてこれから見つければいい話じゃないか。だってお前は生きてるんだ。今ここで、私の隣でちゃんと呼吸してるじゃないか。
毎日生き続けていつか見つければいい。夢がないとかそんなことぐらいで自分に何もないなんて決め付けるな。
お前のいい所は私が沢山知ってる。だからそんなこと言うな。聞いてるこっちは腹立たしいだけだ」
人が、人を好きになる瞬間に名前を付けるとしたらそれは奇跡という響きが一番似つかわしいのかもしれない。
今まで生きる意味なんて誰も教えてくれなかった。
単純なことだけれど、誰も考えてなんてくれなかった。
沢山の否定の末ようやく辿り着いた肯定。
ここで生きていてもいいという言葉。
きっと、ずっとそれが欲しかったんだ。
君に出逢いたかったんだ。
ねえ、もう一度だけ信じてみてもいいかな。
もしかしたら傷付くだけかもしれない。
また裏切られるかもしれない。
でも、もう一度だけ信じてみたいんだ。
人を。そこにある優しさや言葉を。
だって哀れみの後ろにだって優しさや好意があるのは嘘じゃないし、きっと救いの手だってある。
それを教えてくれたのは君だから。
ねえ、俺は強くて優しい人になれるかな。君みたいに誰かに救いの言葉をかけられるような人になれるかな。
一度は諦めてしまったけれど、今度こそ自分の生きる道を貫き通せるかな。
偽善者だと、甘い奴だと罵られても構わない。
苦しくても、どんなに痛くても俺はこの生き方を忘れないよ。
それが君への信頼の証だと思うから。
たとえ離れてしまってもこれだけは変えないよ。
そしてこの想いもきっとずっと変わらない。
「君のことが好きだよ…―か」
あの時言えなかった言葉。それが闇の中で零れた。
少年の頃から変わらず胸にあり続ける想い。
言葉に出すとその安っぽさに笑いが出そうになった。
そんな言葉で括れるほど単純な想いなら今こんなに苦しんだりしないのに。
月明かりが窓から差し込んで暗闇の世界に光が差し込む。
「君のことが好きだよ」
もう一度繰り返す。その言葉はそのまま冷たいシーツの上に落ちて吸い込まれる。
意味のない言葉。叶うことのない夢。届くことのない愛の言の葉。言えなかった告白。
分かっている。馬鹿みたいだ。それでも。
求めてしまう。抱きしめた、あの温もりを。
「君のことが好きだよ」
意味もなく繰り返す。視界が歪む。零れ落ちる熱いそれの意味なんて知らない。
――君のことが好きだよ。
あの日からずっと。そして今も。

「―…ぁ、レック、ス…」
一人きりの暗い部屋でベッドから小さな喘ぎが漏れる。
アズリアの指は自分自身の胸へと伸びていた。
どうしようもない寂しさを消したくて始めた虚しい自慰。
あの人が愛してくれたように乳房を、乳首を愛撫する。
「…んあ…ああ…ふぅ…あ……」
自分の体をこうして慰めていると彼に抱かれた記憶が鮮明に蘇ってくる。
触れる指、唇、そこから伝わる体温。その全てが愛しかった。
けれどそのどれもが自分の元には残らなかった。
全て無くなった。
心に浮かんだ虚無感を押し殺すかのように今度は秘所へと指を滑らせる。
「あん…んふぅッ…は…あ……」
荒い息でクリトリスを愛撫し、愛液で滲む秘部へと指を挿し入れる。
快楽だけを求め指を増やして中を掻き乱す。指が抜き差しされる度卑猥な音が部屋に響く。
「…ぁ…は……レック…ス……」
名前と共に涙が溢れた。
どうしてあの人はここにいないんだろう。
どうして離れなきゃいけなかったんだろう。
あんなに好きだったのに。
もう二度と会えない男のことを思い出して体を慰める自分を嫌悪しながらアズリアは涙を零しながら眠った。

愛している。
安っぽくてありふれた言葉を心の中で繰り返す。冷たいベッドの中で。寂しさを抱きしめて。
そんな言葉も、流れた涙さえも無視して、ただ時は残酷に過ぎ去っていく。
もう二度と戻らない、少年少女だった頃の思い出を嘲笑うかのように。


つづく

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