二本の一方通行路 中編その3



 ……スカーレルはまだ帰ってこない。
 壁にかけられた時計を眺めながら、ソノラは彼の香水がほのかに香るシーツに身を沈めていた。
 風呂に入ってからカイルの部屋に行くと言っていたにしろ、いくら何でも遅すぎはしないか。
 ふと、ソノラの脳裏に夕食時の光景が甦る。
 カイルが昼間のキスの事を何気に口にした時、さりげなく注意を促す事はあっても、あれほど直接的に言葉を発し、相手に対して手を出したスカーレルを見たのは初めてのことだった。
 彼をそれほどの衝動に駆らせたもの。
 それを知った今、ソノラの胸は熱く高鳴った。

『――アタシだって、今はソノラに片思いしてるもの』

 彼の、心の内を明かさない笑顔。
 果たしてその気持ちは彼にとってどれほどのものなのか。
(スカーレル……)
 ソノラはカイルに想いを寄せている。だが、心の奥底から湧き上がるような、この切ない感情は――。
 スカーレルに対する何かが、ソノラの胸を酷く締めつける。
(……やっぱり、このまま待ってるなんてできないよ)
 ソノラはベッドから起き上がると、椅子に引っ掛けていた服を手にとった。


「ぐッ……!」
 他の部屋に比べてやや頑丈に作られた船長室の壁。
 その壁に、男の背中が強く叩きつけられた。
 頬が痺れるように痛み、口内に鉄の味が広がる。
 頭を打ちつけると同時に響いた鈍い音が、脳内を駆け巡り、吐き気となって戻ってくる。
 めまいを伴ったまま、口元を伝う生温かいものに気づき、それを手の甲で拭った。
 ……赤い。
「……ふふっ。さすが力自慢の船長サマなだけはあるわね。気に食わない事は力で解決? ……いえ、力でねじ伏せてるのね」
 手の甲の血を舐めとり、床に腰を落としたスカーレルは目の前に立つカイルを見上げた。
「まだ言いやがるかッ、この野郎……!」
 カイルの手がスカーレルの首に巻かれたスカーフを強引に掴み上げる。同時に締まる首の苦しさに、スカーレルはわずかに顔を歪めた。
 だが彼の顔からは『笑み』は消えない。
 それがカイルの怒りをさらに煽る事となっていた。
「ソノラは俺の事が好きだったんだろ!?じゃあ何でお前はアイツを抱いたんだ!?」
「――あの子が、寂しそうにしていたからよ。好きだった相手に他の女と間違われて、唇を犯されて。みんなの前でその事を言いふらされたあの子を慰めてあげたかったのよ。……これで満足?」
「――……!」
 胸倉を掴んだカイルの手が、スカーレルの体を壁に叩きつける。
 その衝撃にスカーレルは思わず咳き込む。だが、やがて喉が治まると、肩を震わせながら含み笑いを漏らした。
「……ククッ、調子いいわねぇ。こんな時だけあの子の兄貴ヅラして。……アンタだってセンセを抱いてるでしょ?」
「お前のやってる事と一緒にすんじゃねぇ!!俺はアティの事を愛していて、アイツも俺の事を好きでいてくれてるんだっ……」
 それはお互いを想い合っていてこそできることだ。彼女の肌に頬を寄せ、心の中からその温もりを感じる事のできる行為。求めていたものを、その相手から与えられる喜び。
 アティとお互いの想いが通じたあの日、カイルはその気持ちを身に染みて理解していた。
「……だがよ、お前のやった事は一方的な欲望の解消でしかねぇだろ」
「……ッ」
 カイルの言葉に、今まで笑みを浮かべていたスカーレルの眉がわずかに動く。
「ソノラに対しては俺も悪い事をしちまったと思ってる。俺も自分のした事の手前、デカイ口は叩けねぇ。……だけどよ」
 胸倉を掴む手に力がこもる。
「お前は、俺がアイツを傷つけた事を利用したんだろ!?ソノラの悲しみにつけこんで、そのままタラシ込んだだけじゃねぇかよ!」
 自分にとって妹のような存在だった少女が、好きでもない男の言葉にのせられ、その体を捧げた。
 第三者のカイルにとってスカーレルの行動は、自分の欲望の為に女の心を惑わせた卑劣な行為としか見て取ることができなかったのだ。

 ――ソノラを利用した……。

 利用されたのは自分だったのではないのか。
 カイルとの間に生まれた心の溝を、そのすき間に存在する寂しさを埋めるために、ソノラはスカーレルに体を求めてきたのではないのか。
 想いを寄せる女が自分に体を求めてきて、断るような男がこの世にいるものか。
 ――例えその交わりに、愛が存在しなくとも。
「……ふっ、ふふふ……」
 いまだ強引に胸倉を掴まれ、力なく体を立ち上がらせているスカーレル。彼はカイルの拳で青く色付いた口元を歪め、声を漏らした。
「そうよ、アタシはあの子の胸の内を知っていて、それを承知で抱いたわ。……でもね」
 垂れ下がっていたスカーレルの手がゆっくりと上がる。
 それは自身の胸元にあるカイルの腕を掴んだ。
「――それでもアタシはあの子に必要とされたかったのよ。どんなに願ったって、あの子の気持ちは貴方に向けられたままだもの。それなら……抱いてくれなんて言われちゃったら、抱いてあげるしかないじゃない?……そんな事でも、あの子にとってそれが慰めになるのなら、ね」
 スカーレルの言葉に、カイルは眉をひそめる。カイルの腕を握るスカーレルの手に力が入るのとは反対に、彼の手はスカーレルの胸倉からするりと離れていった。
 ……こいつは今、なんて言った?
「おい、抱いてくれって……アイツがお前に言ったのか?」
「……ソノラには言わないでちょうだいね?」
「ウソつくんじゃねぇ。いくらヤケになったからって、処女の体で惚れてもねぇ男に自分から誘う奴がいるかよ」
 カイルの怒りに任せた言葉に、スカーレルの口元がわずかに引きつる。
 彼は無意識に相手の気に障ることを言ってしまう時があった。頭に血が上っている時はなおさらだ。
 いつものスカーレルならそのような事を言われても苦笑して流していただろう。
 だが、今は場合が場合だ。
「……なんで、処女だって言い切れるワケ?」
 うつむいたまま、スカーレルの口から細々と言葉が漏れる。
 カイルは何を言ってるんだと顔をしかめ、怒りをあらわにスカーレルの手を振りほどいた。
 スカーレルはゆっくりと顔をあげると、自分を鋭く睨みつけるカイルの目を見据える。その瞳には、頬を腫らし、無気力な笑みを浮かべる自身の姿が映っていた。
 ……唇が震えている。スカーレルはその唇を噛みしめると、口を開いた。
「処女じゃないわよ。……前にアタシが強引に奪っちゃったから」


 ドン!

「っ!」
 たたずむドアの向こう側が音を立て、足元にわずかな振動が伝わった。
 ソノラの肩がビクリと震える。
 彼女の先にあるのは――船長室だった。
(な……なに?)
 途端に部屋の中から聞こえてくる喧騒の声。
 それがカイルとスカーレルのものだという事はすぐに理解できた。
「――――!……――――!」
 彼らの会話の所々に入るソノラの名が、その争いの原因と判明するのにそう時間はかからなかった。
 ……嫌な予感はしていたのだ。
 夕食時にあれほど険悪な雰囲気を漂わせておいて、この期に及んで冷静な話し合いがなされるとは正直思えない。
 ドアノブに伸びていた手がそのまま動きを止め、その指先はかすかに震えている。
 彼女の額を、冷たいものが流れ落ちた。
(今……このドアを開ければ、その間だけでも二人の争いは止められるかもしれない。……でも……)
 その手がノブを回すことを頑なに拒んでいる。
 はたしてドアの向こうから聞こえる争いの声の理由が、昼間の『キス』の事だけだといえるのだろうか。
 ソノラの胸を、鈍く重い鼓動が打つ。震えているのが指だけではない事にようやく気がついた。
 
 ――第一、どうしてこんな事になってしまったのか。
 もとはといえば、カイルに想いを寄せていた自分のきまぐれな行為が呼び起こした事ではないのか。
 彼らに争わなければならない理由なんてない。原因はすべて自分にあったのだから。
 それなのに、自分はその騒動に加わるわけでもなく、争いを止めるわけでもなく、ただこうやって一人震えながら事の成り行きを盗み聞きしている。
 ……彼らのもとに行くという勇気が出ない。
 それは都合のいい言い訳だという事ぐらいは分かっている。
(でもっ……あたしが行ったところでどうすればいいのよ?)
 現実から逃避している自分。
 それはあまりにも弱く、卑怯な存在だった。
「…………」
 やはり自分に彼らの争いを止める事は不可能だった。
 ドアノブに伸ばしていた手を力なく下ろし、廊下を戻っていく。
 ふとその時、小柄な人影が向こう側からこちらに向かって歩んでくる姿が視界に入る。
 それは、沈んだソノラの姿を見つけると足早に近づいてきた。
「――どうしたんです?ソノラ」
「先生っ……」
 まるで先ほどの甲板での出来事がなかったかのように、いつもと変わらぬ面持ちで声をかけるアティ。
「こんな夜遅くまで起きてたら、風邪引いちゃいますよ?私も今から寝ますから」
「………っ」
 彼女の優しい笑みに、胸の内で張り詰めていた不安はゆっくりと溶けていく。
 溶け出したその感情は涙となり、ソノラの頬を伝っていった。
「ソ、ソノラ!?」
 突然の事にアティは慌てて駆け寄る。ソノラの鼻先に、ふわりと心地よい石鹸の香りが漂った。
 ソノラは困ったように自分の顔を覗き込みにくるアティの袖を掴むと、涙の溢れる目を固く閉じた。
 同時にぽたぽたと大粒の涙がこぼれ、くすんだ床を濡らす。
「……何かあったんですか?もしかして、カイルさんが何か言ったんですか?」
 彼女のしなやかな指がソノラの優しく拭い取る。
 ――想いを寄せていた男の想い人。
 それなのに嫌う事ができない。
 どうしてこの人は、ここまでまわりの人々に愛されているのか。
 
 それは誰よりも他人を思いやる心があり、その為に自身を愛してやる事をおろそかにしているから。
 だから周囲の人々はそれを補うように、彼女に与えられた『愛情』をその心に返しているのだ。
 ソノラは彼女を見るといつも劣等感に悩まされていた。
 それは今、この状況においても何ら変わることのないものだった。
「先生っ……、あたし、最低だよ。あたしのせいでみんなの関係がぐちゃぐちゃになっちゃってるのに、あたしはっ……それを見なかったフリして、逃げようとしてる……」
 誰かの事を想っていても、一番大切なのは、結局自分自身。
 誰かに責められるのが怖くて、被害者として居続ける事しかできない自分。
 彼らの輪を乱した自分は、本当は『加害者』なのだという事実を認めたくないままでいる。
 
 あくまでも自己防衛を続ける気持ち――それがアティと自分の決定的な違いだった。


つづく

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